「ごちそうさまでした」
「またきてね」
マスターに見送られ、デパートに続く道を二人、手を繋ぎながら歩いてゆく。
春の陽射しがとてもあたたかで。なんだか、神様から祝福されている気がした。
あなたと生きていられるのがこんなにも尊いだなんて。繋いでいる手の体温を通していま、「ぬくもり」を感じている。
いいのかな、こんなにしあわせで。
「どこのデパートにする?」
「三越でも、伊勢丹でも」
「……ここからなら高島屋が近いから、高島屋にしよっか」
「そうだな。タクシー、使うか?」
「うん、そうしよう」
まさか、雅久お兄ちゃんから指輪を買ってもらえる日がくるなんて、としみじみとする。
ただ、どんな指輪にするかをなにも決めていなくて。ブランドさえ決めていない。
指輪をほしいとリクエストするなら、そのブランドは予め決めておけばよかったな、と後悔する。
まあ、ピンとくるブランドがあればそれにしよう。
雅久お兄ちゃんの手をぎゅっと握る。と、手を握り返してくれた。
『ちゃんと繋がっているんだよ、俺たちは』と雅久お兄ちゃんが保証してくれた気がして、安心感から顔がほころんだ。
雅久お兄ちゃんがぱったりと立ち止まる。ジャージポケットからスマホを取り出した。
「タクシー、呼ぶから」
「うん」
タクシーアプリを入れている雅久お兄ちゃんの手際のよさに感心しつつ、タクシーを手配する彼の姿を見守る。
タクシーを手配したあと、スマホをジャージポケットに突っ込んで、わたしを道路脇へと連れて行った。
「呼んだから。到着まで、まあ大体五分ほどだってさ。近くを走っているタクシーがたまたまあったからな」
「うん」
昔ならこれが苦しくて仕方なかったのに、この余白をいまは二人の心を深めるための五分間に感じる。
雅久お兄ちゃんに身をもたせかける。わたしの肩を抱いてくれたその瞬間、この男にどこまでも堕ちていってしまいそうな予感がして恐くなった。
でも、この男となら、果てしなく堕ちても構わないとも思ってしまって。
自分がもう、止められなかった。
「……やさしいね、雅久お兄ちゃんは」
「……そうか?」
「……うん」
「……そっか」
自分のやさしさを自覚しているのか自覚していないのか、なんとも曖昧な言葉が返ってくる。
たちの悪いその曖昧さに苦わらいが洩れた。
「もう少しだから」
「うん」
タクシーの進行方向を見つめながらわたしにそう報告した。
――この時間がずっと続いてほしい。
その一方で、早く指輪売り場に行ってお揃いの指輪を手に入れたいとも思っていて。
心境はとにかく複雑だった。
エンジンの音が聞こえてハッとする。その方向を見れば、迎車と表示されたタクシーがこっちに向かって走行してきている。雅久お兄ちゃんが手配したタクシーであるのにすぐ気づいた。
「きたな」
「きたね」
タクシーがわたしたちの傍らに停車し、運転者さんが後部座席のドアを開けてくれる。
それに乗り込んだわたしたちは、後部座席のシートに深々と腰を載せた。
「お待たせしました。行き先は駅前の高島屋でお間違いありませんね?」
「はい」
「では、発進いたします」
そうして法定速度を遵守しつつ、タクシーは駅前の高島屋に向かって走行し始めた。
流れるみたいに変わってゆく住宅街の風景を眺める。わたしたちの人生も日々移ろい変化してゆくのだろうな、と感慨深くなる。
あの一戸建てに暮らすひとはいったいどんな生活を送っているのだろうか。
近親相姦を繰り返すわたしたちとは違って、あれに暮らすひとはもしかすると健全な生活を送っているのかもしれない。
「普通」と呼ばれる概念は存在しない。けども、これがもし存在するなら、「普通」とされるような生活をわたしも雅久お兄ちゃんと送りたかったな、って。
「普通」
これがいったいなんなのかを考える。
――けど、どんなに考えても「普通」がなんなのかよく解らない。
「詩子?」
「ううん、もないよ」
声をかけられて即座にごまかす。
心配をかけるのは二度とごめんだから。
わたしの気持ちを即座に見抜いたのだろう、「ああ」とだけ答えて言葉を続けなかった。
この気持ちがどうか、どうか雅久お兄ちゃんに知られませんように、と強く願う。
――とある香りがふと鼻をくすぐる。
――嗅いだことのあるフレグランスだ。
多分、サムライのフレグランスで、アクアマリンの香りかもしれない。ユヅキ君の爽やかなイメージにぴったりだ。
今度、ユヅキ君にこれをプレゼントしよう。
ユヅキ君、喜んでくれるかもしれない。
雅久お兄ちゃんといるのにセフレのことを考えてしまっているわたしって、なに。
ユヅキ君――彼は、わたしが逃げ場を失ったとき、救いの手を黙って差し伸べてくれるひとだ。
そう、ユヅキ君に救われてばかりいる。
視線を雅久お兄ちゃんに戻したそのとき、彼がわたしの手に自分の手をそっと重ねた。
ドキンとして肩がふるえる。
「あっ……」
言葉が、途切れる。
これじゃあ怪しまれてしまうだけだって。これをわかっていながらなんで、もっと上手に取り繕えなかったの、わたし。
「……」
「詩子」
「う、ん……」
ユヅキ君に支配されていた思考は、雅久お兄ちゃんによって瞬く間に現実へと引き戻された。
『俺だけ見ろ』
まるで、そう言わんばかりなありさまで――。
「指輪のことを考えていたのか?」
「……うん。指輪のこと、考えていたの……」
「……そっか。詩子に似合う指輪、たくさんあると思うぞ」
「……そうだね」
ずるい聞き方をする男だな、と本気で思った。これだからじわじわと追いつめられていって、気づいたときにはこの男に捕らわれているのだ。
心理戦が好きなこの男は正攻法を使わない、決して。
――妙な間が流れて気まずくなる。
高島屋に早く着かないかな、と気持ちが焦り始める。
「間」。これはわたしの最も嫌いな性質で、わたしが最も苦痛に感じる地獄なのだ。
重なった手をやけに重く感じる。その手が告げるものは“詩子を逃さないからな”という、死刑宣告も同然の圧だ。
わたしを解放してよ、もう。わたしを自由にしてほしい。なのに、心理戦を好むこの男は、わたしが追いつめられてゆく様を愉しみ、それをやめようとしない。
長い。
高島屋に着くまでがやけに長い。
「あの……雅久お兄ちゃん……」
「駅か?」
「うん……」
「見えるだろ? あそこだよ」
「ああ……」
指摘されたほうを見たら、駅前の人混みが視界に映った。
あと思うすこしで高島屋に到着するのを実感して心が安堵感につつまれてゆく。
――タクシーという棺桶からようやく解放されるんだ。
後、タクシー乗り場に向かって走行したタクシーがそこにぴたりと停車し、後部座席のドアが開いた。
「ああ、お支払いですけど、アプリで完了していますから」
「ありがとうございます」
「いえいえ」
タクシーを降りて、高島屋に向かって歩き始める。
手を繋れ、これがふたたび一つになる。
――この瞬間、雅久お兄ちゃんの支配下にいる事実を実感し、逃れられない支配の構造に恐くなった。
手を振り払いたい。けど、繋いでいてほしくて。その手を結局振り払えないままに高島屋に向かって歩いてゆく。
「足、痛くないか?」
「うん、大丈夫」
足を気遣ってくれるなんて。この男にますます堕ちてゆきそうな予感に恐くなって、ここから逃げ出したくなった。
そして、高島屋にたどり着く。
自動ドアを潜るなりバッグや帽子など、さまざまな商品が目を奪う。指輪が目的なのに、これとはべつのものをほしがるわたしは強欲で。
本当、手の施しようがない。
「……なにか他にほしいものがあるのか?」
きょろきょろと視線を泳がせながら店内を歩くわたしに気づいたのだろう。雅久お兄ちゃんがそう切り出す。
「うっ、ううん! べ、別に! ないよ!」と即座に否定したけれども、「いや、あるなら言えよ」と言った。
そうやって甘やかされると自立できなくなるから困る。
甘やかされるとなにより『これがほしい』と欲が無尽蔵にあふれ出すから。
「いいからな、我慢しなくても」
「……うん、ありがとう」
ジュエリー売り場目指して歩きながら、どんなブランドの指輪にしようかと悶々とする。
本当に、なんにも考えていない。
と、ちょうどそのとき、目を引くブランドを見つけて、「あれ!」と指を差した。
「ああ、あれか。姫にも人気のブランドだな。あれにするか?」
「うん!」
「行くか」
「うん!」
テンションがたちまち上がる。
悶々とした気分はどこか遠くへと吹き飛んでいた。ピンとくるブランドを見つけて、今日、このブランドの指輪が手に入るのだと。みたされた気分で胸はいっぱいだった。
雅久お兄ちゃんとお揃いの指輪がついに、手に入るんだ――。
「ところで、なんの指輪にするんだ?」
「……左手、薬指……」
「……ファッションリングか?」
「う、ううん……」
「……分かっていたけどな」
そう洩らし、わたしの頭をやさしくなでる。
「うん……」
「お揃いのものを買ってやるから、いいな?」
「うん!」
ぱあっと顔がほころぶ。自分がどうしようもないほど解りやすい女であるのを痛感した。
でも、雅久お兄ちゃんと同じ指輪を装着して、彼との繋がりを実感できるのなら、もうなんでもいいやって。
「すみません」
「はい。カップルでお越しですか? もしくは、ご夫婦で?」
「いえ、夫婦です」
――嘘をつきながらの買い物って罪悪感があるけれども、雅久お兄ちゃんとならこうした買い物も悪くないな、って。
「詩子、好きな指輪を選べよ。金額は気にしなくてもいいからな」
「あっ、うん」
ジュエリーケースに視線を落とす。
まばゆい指輪がずらっと並んだジュエリーケースにくらりとめまいがする。
わたしはこのなかからいったいどの“運命”を選べばよいのか。
ジュエリーケースの前で視線をさ迷わせるわたしに向かって、「これだけど、どうだ」と雅久お兄ちゃんが勧めた指輪。それは、造りが二重構造になった、STAR ETERNALというシルバーのリングだった。
最近は、こんな凝ったデザインのリングがあるんだな、と感心する。
同時に、雅久お兄ちゃんがこれを選んでくれたのがうれしくて、「これにする!」とSTAR
ETERNALを迷わず選んだ。
「お似合いですよ、奥さまに」
「僕もそう思って。妻にはこれしかないな、と」
ゆるやかに交わされてゆく会話がどうしようもないほどにあまくて、胸が痛かった。
「僕もこれにします」
雅久お兄ちゃんもSTAR ETERNALを選び、お揃いの指輪がついに手に入った。
「奥さまのサイズでしたら七号でしょうね。ですが、少し余裕を持たせて八号でもいいかもしれません」
「いや、もしかすると抜けるかもしれないので、七号にしておきましょう」
「そうですね」
七号の指輪を試しに装着する。
指にぴたりとはまり、これに決まった。
そうして、雅久お兄ちゃんも指輪を装着してもらってから、クレジットカードでこれらの精算を済ませた。もしもなにかあれば指輪の調節は可能であるとの説明を受けた後、わたしたちはジュエリー売り場をあとにした。
「すてきな指輪だね」
「そうだな、詩子に『ぴったり』の指輪だよ」
「……うん!!」
こんなもしあわせな日が、あってもいいのかな。
“繋がっていない”だなんて、わけの解らない不安に苦しむ必要はないんだ。
高島屋の店内を二人、手を繋いで歩きながら、わたしたちの未来は明るいかもしれないと考えて一人、勝手にうかれた。