第七章

儚い生活

「ん……」

朝、目を覚ますと、ベッドの余白は雅久お兄ちゃんによって埋まっていた。

規則的な寝息を立てて気持ちよさげに眠っている雅久お兄ちゃんを起こさぬよう、静かに寝返りを打つ。

「うた、こ?……」

直後、名を呼ばれ、心臓が盛大に跳ね上がる。

「おっ、おはよう……」

「ああ……おはよう……」

そう酷く眠たげにあいさつしてから、「さて……そろそろ起きるかな……」と気怠げに洩らして、上体を起こした。

雅久お兄ちゃんを見上げる。

ぼさぼさの髪であろうと、寝間着のジャージ姿であろうと様になっている雅久お兄ちゃんを見て、彼は本当にずるいひとだと思った。

「なんか食うか?」

「……菓子パン」

「……もっと栄養のある物にしろよ」

「……じゃあ、鮭おにぎりと野菜ジュースにするね……」

「……変わった組み合わせだな」

「……やっぱり菓子パンにするね……」

「いや、とりあえず鮭おにぎりと野菜ジュースだな?」

「……うん」

「それか」

それか、と切り出し、「喫茶店でモーニングでも食うか」と提案した。

喫茶店でモーニング、か。雅久お兄ちゃんと喫茶店に行くのなんて一体何カ月ぶりだろうか。

「……モーニング、食べる」

「じゃあ、行くか、喫茶店」

「うん」

喫茶店に行く流れになったもののそこに行くやる気が起こらない。布団から抜け出せずに何度も寝返りを打っては、そのなかでもぞもぞとしてしまう。

こんなわたしを急かさずに雅久お兄ちゃんは、ベッドボードに置いたマールボロ・ボックスからマールボロを抜き取り、それにジッポーで火をつけてマールボロを燻らせ始めた。

――家を出る前、マールボロを決まって吸っているのだろうか。この香りをまといながら見知らぬ女と空気や時間を共有しているのだろうか。

紫煙の香りから見知らぬ女の影がちらつくたびに、その残像がわたしを破壊してゆく。

もやもやとした気持ちを背負い込んだまま、一方で面倒臭いとも思いつつ体を起こした。

今日の服装、どうしようかな。

デートじゃなくてただの外出なんだし、上下ジャージでも構わないだろう。

ベッドを抜け出て茶箪笥から衣類を取り出し、更衣を始める。雅久お兄ちゃんの前での着替えには慣れているので特に抵抗感はない。

雅久お兄ちゃんはこうしたわたしを前にしても変わらずに紫煙を燻らせる。

変わらないなあ、このひとは、と思った。変わらないからこそ安心して身をゆだねられるのだ。

――はた、と立ち止まる。

この日常は、ふとした拍子に崩壊してしまうほどのもろい日常で。パジャマからTシャツに着替えてジャージを羽織ったときに、そのあまりものもろさにぞっとした。

その顔に目線を送る。

紫煙の動きを見ているのか、わたしの素肌を見ているのか。目線のその不定かな動きに心臓がいやあな音を立てた。

ジャージパンツをそそくさと履き、パジャマを畳んでベッドの隅に置く。これの定位置はベッドの隅だ。

「あ、の……」

“何を見ていたの?”

聞きたいのに聞けない。

『詩子を見ていた』

もしもこう言われたら――信じていたものが一瞬で崩れる気がして。

聞けない、こんなの。

「ん?」

「う、ううん、……何もないよ……」

なにもないと否定すれば「そっか」と言い、煙草を銜えた。

これでよかった。

わたしは今日、雅久お兄ちゃんと数カ月ぶりに喫茶店に行ってモーニングを食べる。さらにはそのあと、もしかしたらどこかへ出かけるかもしれない。

余計なわだかまりは抱かないままに雅久お兄ちゃんと過ごして、嫌なことは忘れる日にすると決めた。

「歯、磨いてくるね」

「ああ」

寝室を出、洗面所に向かう。

いったん歯を磨いて気持ちをリセットしたかった。

歯を磨き、寝室に戻る。そこに戻ると、雅久お兄ちゃんはすでに着替えを済ませていた。

「歯、磨いたんだな」

「うん」

「俺も磨いてくるよ」

そして、雅久お兄ちゃんも歯を磨きに洗面所に向かった。

その後ろ姿を見送った後、ベッドで横になる。

モーニング、なにを食べようかな。

ゆで卵とトーストの組み合わせも捨て難いし、サンドイッチも捨て難い。

早く、雅久お兄ちゃんと喫茶店に行きたいな。

朝食を1人で食べる日々が当たり前だからこそ、今日のモーニングをより特別に感じた。

「お待たせ」

雅久お兄ちゃんが戻ってきた。

「おかえり」

「ああ。今から行くか、喫茶店」

「うん」

「出るか、そろそろ」

「……うん!」

寝室を出て、玄関で靴を履き外に出る。

ああ、春はやっぱりあたたかい。雅久お兄ちゃんが隣にいるからなおさらこう感じるのか。

ぼうっとしていたそのとき、雅久お兄ちゃんが玄関ドアの鍵を閉めた。

「行くぞ」

「うん」

と、雅久お兄ちゃんがわたしの手をぎゅっと握りしめてくれて、動揺する。

まさか、手をつないでくれるだなんて、夢にも思わなかった。

手をつなぎながら階段を降りる。わたしの歩調に合わせてくれる、雅久お兄ちゃんのさりげないやさしさがありがたくて。たったこれだけで涙腺が緩んだわたしはどうしようもない泣き虫だと思った。

その手を、離さないでいて。

わたしから、離れないでいて。

雅久お兄ちゃん、雅久お兄ちゃん――。

「喫茶店だけど」

「うん」

「近くに喫煙可能な喫茶店があるから、そこにするか。俺、前からそこに目をつけていてさ」

「うん、分かった」

べつに、どこでも構わない。

喫茶店であろうとマクドナルドであろうと、あなたとならどこでも構わない。

あなたと朝ご飯を食べられるだけでもう、どうでもよくなってしまうほどに全てがうれしくて。

いまならもう、このまま死んでしまっても構わない。

階段を降りて、マンションのエントランスを抜ける。

しばらく歩き続け、壁に蔦が絡まった、レンガ調の古風な造りの喫茶店に到着した。

「ここだよ」

「うん」

店内を見る。

客は1人もおらず、窓から洩れ出るあわい色のランプがやさしい雰囲気を醸し出している。

今度、ユヅキ君を連れてきて、ここで一緒になにか飲もう。

雅久お兄ちゃんがドアを開ける。

からんころん、とドアベルが鳴った。

「いらっしゃい」

「いつもお世話になっています」

「いいんだよ、雅久君。おっ、隣の美しい女性が例の妹さんかい?」

「まあ、そうですね」

「それはともかくとして、ゆっくりとしていってね」

「はい」

手を握る力を強められ、心臓がドキンと音を立てる。

雅久お兄ちゃんに手を引かれながら窓際奥の座席まで移動して、向かい合う形でそこに腰を下ろした。

「ああ、モーニングだな……。トーストのセット、サンドイッチのセットとか、いろいろあるけど……詩子はどうする?」

「んー……」

なにを注文しようかと悩んでいる間にマスターが2人分のお冷とお手拭きをテーブルに運んだ。彼に頭を下げれば、彼はおだやかな笑みをわたしに向け、厨房に踵を返した。

「トーストのセットにはゆで卵とサラダがつくぞ。サンドイッチのセットにもその2つがつくけどな」

「んー……決めた、サンドイッチのセットにするね。セットドリンクはアイスコーヒーで」

「了解。俺はトーストのセットにするよ。トッピングは小豆。セットドリンクは俺もアイスコーヒーで」

まさかの小豆。

朝からやけに甘いものをセレクトする雅久お兄ちゃんにわらいそうになった。

それをなんとかこらえて「う、うん……分かった……」と返す。

「あの、すみませーん」

「ああ、サンドイッチのセットとトーストのセットね、聞いていたよ」

それから、マスターは読んでいた新聞をテーブルの上に置いた。

サンドイッチのセットを注文したあと、急激な空腹感に襲われてしまい、おなかがぐうと鳴る。

雅久お兄ちゃんを見ると、煙草を燻らせている。

窓に映る景色を眺め、物思いにふけりながら紫煙を燻らせる雅久お兄ちゃんの姿がはかなくて。

こうして一緒に過ごしてるいまも、雅久お兄ちゃんがどこかへと行ってしまいそうな予感が消えてくれなくて。

「サンドイッチのセット、食べるの……楽しみだなあ……」

「……そうだな」

――雅久お兄ちゃんの一言に安堵する。

食材を淡々と切る音、ふうわりと香るマールボロの匂い、シェードランプのあわい色や壁に飾られた絵画。

いま、この世界にわたしたちは確かに存在していて、ここで朝食を食べようとしている。

なのに、たまらなく不安で恐くて。

わたしたちはちゃんとつながっているのに、見えない不安がわたしのこころを押し潰そうと躍起になる。

「……なにか、ほしいものはあるか?」

「えっ? ほしい、もの?……」

「ああ、ほしいものだよ」

煙草の灰をガラス灰皿にトン、と落として煙草を銜える。

あるとするなら、2人のつながりを証明してくれるもの――。

お揃いのもの――指輪。

そう、指輪がほしい。

「指輪が、ほしい!……」

指輪、と発した瞬間、雅久お兄ちゃんのまとう空気が明らかに変化した。

このつながりを拒絶しているのではなくて、本人もそれを喜んでいるという、こうしたあたたかな変化だった。

わたしたちのつながりをいままで証明してくれるものはカレーと近親相姦の2つだけだった。

それじゃああまりに苦しくて背負いきれない。

正直、もう限界だ。

「じゃあ、モーニングを食べたらデパートに行って、指輪を買いに行くか」

「うん!!」

禁忌を犯さなくても、呪いを食べなくても、わたしたちはつながっている事実を証明してくれる記号がようやく手に入る。

「はい」

マスターがわたしの前にサンドイッチのセットを、雅久お兄ちゃんの前にはトーストのセットを置いた。

「ありがとうございます」

「ゆっくり食べてね」

それから、マスターは厨房へと戻って行った。

「食べるとするか」

「うん」

雅久お兄ちゃんは煙草を灰皿に押しつけて、火を消した。

お手拭きで手を拭き、分厚いサンドイッチを頬張る。ハムの肉厚な食感とシャキシャキのレタスがとてもおいしい。

こんなにおいしいサンドイッチが食べられるのなら、毎日ここにモーニングを食べに通っても構わない。

アイスコーヒーのストローをすすりつつ、雅久お兄ちゃんを見遣る。

小豆をトーストの上にべったりと塗りつける雅久お兄ちゃんを見て、彼は真性の甘党なんだな、とそんな彼がおもしろかった。

そして、トーストに齧りついた雅久お兄ちゃんのその遠慮のない食べっぷりをたまらなくすてきに感じた。

こうした平和な朝食って果たしていつぶりだろうか。

あのリビングルームで決まってひとり、トーストを焼くむなしい朝を繰り返している。

今日が、永遠に続けばいいのにと。

けど、どんなに願っても、今日は永遠には続かない。

だからこそ、今日がたまらなく尊く、いとおしいのだ。

約束されている終わり。これ以上に尊くて、いとおしいものはない。

サンドイッチを頬張りながら、雅久お兄ちゃんが朝食を食べる姿を見守る。

その姿を見守るうちに、雅久お兄ちゃんは確かに存在していて、わたしと朝ご飯を食べている事実を実感できた。

――生きているって、こんなにもうれしいんだなあ。

「しあわせ」の定義は分からないけれど、わたしはいま凄く「しあわせ」だ。

アイスコーヒーのストローから脣を離し、紙ナプキンで脣の周りの汚れを拭う。

雅久お兄ちゃんはトーストを黙々と食べている。

ここを出たらデパートに行って、指輪の購入か。

窓に目を移し、指輪に思いを馳せる。

左手薬指にはめる指輪――。

結婚指輪だし、わがままかな。わたしたちはそもそも夫婦ではなくて、兄妹なのだから。

頬づえをつき、窓に映る木々を見るともなく見ていたら、「サンドイッチ、食べないのか?」と聞かれて、「ううん」と返す。

「あのね、指輪について、考えてた」

「ふうん」

「うん」

さして興味もなさげにトーストをふたたび食べ始めた雅久お兄ちゃんにずきん、と胸が疼いた。

“指輪で浮かれているのはおまえだけだよ、詩子”と遠回しに告げられた気がして。これがわたしを突き放す言葉にしか聞こえなくて。

なら、“指輪を買いに行くか”なんて甘い約束は交わさずに、始めからわたしを突き放してくれたらよかった。

「……サンドイッチ、食べるね」

「ああ、食べろ」

また、ぎこちなくしかわらえない。

自然体が崩れ去り、作ったわたしが顔を出す。

――せっかく楽しく朝食を食べていたのに、自分の性格が場の空気を暗くする。

わたしはなぜ決まってこうなのか。ひとをしあわせにはできないのに不幸にするのはお手の物だ。

どんよりと沈んだ気分のままサンドイッチを口に運ぶ。始めからこうなるなら指輪が欲しいなんて安易に言うんじゃなかったな。

『なにもいらないよ』

こう言えばよかった。

苦しくて苦しくて。サンドイッチ、全く味がしなくて、喉を通らなくて。これをプレートの上に置いた。

「残すのか?」

「……うん」

アイスコーヒーで喉を潤し、言語化できない気持ちをこれと一緒に胃に流し込む。

この瞬間、自分の苦しみを言葉にしなくてもよくなった気がして負担が減った。

“指輪、いらないよ”

こう言えるなら、これさえ言えるなら。

……駄目、言えない。

雅久お兄ちゃんとわたしだけの特別なつながりが、ほしい。

「……どんな指輪に、しようかな」

「どんな指輪でもいいぞ。好きな物を選べよ」

「……うん」

――なんだ、わたしの思い過ごしだったのか。

雅久お兄ちゃんもわたしとのつながりを欲しているじゃん、って。

そして、その言葉を聞けたとき、安心感から涙が込み上げて、プレートの上に一滴の涙がこぼれ落ちた。