第六章

孤独な共生

「二日連続、カレーでごめんね」

「いいよ、別に」

夕刻。

カレーを食べながら、これを二人で食べるのもいったい何度目なのだろうか、と考える。

本当、カレーに飽きてしまったな――と思いつつ、それを食べる雅久お兄ちゃんの姿を見守る。

雅久お兄ちゃんは、わたしが作るカレーに飽きたと思わないのか。自分が作るカレーばかり食べているからこれに飽きてしまったのか。

……よく解らない。

昨日残しておいたカレーを食べ終え、スプーンをプレートの上に置く。

“食べる”のではなくて“食べて”いる。

こんな気がして、カレーにたちまち嫌気が差した。

雅久お兄ちゃんが好きなものをカレー以外にも教えてくれていないせいでこればかり食べる羽目になる。

「ごちそうさま」

「もう食べたんだな」

雅久お兄ちゃんのプレートをチラリと見ると、半分以上もカレーが残っていて。お互いに、やっぱり無理してこれを食べているのだと。このささいな気づきがわたしの胸にナイフをぐさりぐさりと突き立てる。

「うん」

こう返し、笑顔をすぐさま取り繕って平静を装う。

「そっか」

と、雅久お兄ちゃんもぎこちない笑みをうかべた。

わが家にとってのカレーとはもしかするとSOSの象徴で、呪いの記号でもあるのかもしれないな、と。

喩えるなら「非常食」。これが世界からなくなるのは、わたしたちが離れ離れになるのを意味する。

カレーを食べ続ける呪いと近親相姦。これらがわたしたちを繋ぎ止めている呪いだなんて。

目を背けたくなるほどの息苦しい枷にこの心は押し潰されそうだ。

「ごめんな、“今日は”残すよ、カレー」

「あっ、うん」

思った通りだ。

残した。

プレートに残った残飯が呪いの記号に見えてきて。残すなら三角コーナーのネットに丸ごと捨ててほしい。

「残さなくてもいいよ」

「いや、明日に食べるから」

「ううん、まだたくさんあるから大丈夫だよ」

「……分かったよ」

そして、椅子から立ち上がり、残飯を三角コーナーのネットに捨てに行った。

――それでいい。

本当、カレーを食べる儀式をわが家は果たしてあと何度繰り返すのだろうか。

かちゃん、とプレートをシンクに置いた音が反響する。

「歯、磨いてくるから」

「行ってらっしゃい」

「ああ」

煙草も吸わずに洗面所へ歯を磨きに行くのは、わたしに口づけるときの暗黙のサインだ。

けど、雅久お兄ちゃんの今日の歯磨きは何かが違う予感がした。

今日のカレー、そん何をいしくなかったのかな。

カレー、作るのもうやめようかな。

いっそカレーを作るのをやめてしまえば二度とこれを食べなくて済む。

肩の荷が降りた気がして安堵する。雅久お兄ちゃんがわたしをカレーから解放してくれた気がして、二度と苦しまなくてもいいのだと。うれしいのかかなしいのかよく解らなかった。

――ううん。

うれしいわけがないんだ。

これは遠回しに『おまえのカレー思う食べたくないんだよ』と言われているも同然の出来事で。

涙がプレートにぽたりとこぼれ落ちる。

「カレー……もう、二度と作らないからっ!!」

思いのままに叫んで不満を爆発させてしまって。これは行き場のない重荷をぶちまけた瞬間だった。

椅子から勢いよく立ち上がり、荒々しい足取りで寝室に向かう。食器類を洗わないまま寝室に向かったのはそこがわたしのシェルターだから。

雅久お兄ちゃんに寝室に行くわたしを引き止めてほしいと思っていなかったし、こんなわたしなんか放っておいてほしいとさえ思っていた。

まずいカレーしか作れず、雅久お兄ちゃんを不快にしかできないこんな無能なわたしは世界から一刻も早く消えるべきだと真剣に考えていて。

この衝動は自分でも止められない領域にあった。

寝室のドアを開けてこれを勢いよく閉める。

鍵があるならそれをかけて、自分だけの世界を構築するのに。

それができないのが本気で、悔しい。

出入口付近で蹲り、涙をぼたぼたとこぼす。

カレーを作っても愛されず、何をしても都合よく体を利用されて――何をすれば、何を注げば雅久お兄ちゃんから認めてもらえて愛してもらえるのだろうか。

不適切な愛されかたなら解るのに。

正しい愛されかたが、解らない。

「っ……ひっぐ……ううっ……」

と、ドアをノックする音がした。

「詩子、開けるぞ」

「……開けないで!!」

「いや、開けるから、出入口付近にいるなら移動しろ」

その命令口調にビクッとして、肩が跳ね上がる。

「……分かった……」

そして、不承不承に出入口付近を離れた。

ドアが開く。

振り向いて雅久お兄ちゃんを見つめ返せば、わたしと向き合う、黒目勝ちの瞳がわたしを射抜いた。

逃げ場を失ってしまう。

なぜ、わたしをそうやっていつも惑わせるの。

「とりあえず、ベッド」

たった一言、無愛想に“ベッド”と指示されて、指示されるがままベッドに移動してそこに腰を下ろした。

雅久お兄ちゃんもベッドに座る。

何が、始まるのか。

目を伏せた直後、「……ごめんな、いつもカレーばっかり作らせて」と詫びた。

「えっ……」

目線を上げて、雅久お兄ちゃんに瞳を据える。

「夕食、最近カレーばっかりだっただろ?」

「うん……」

「明らかに無理、してたよな?」

「そん、な……」

視線を逸らす。と、いきなり抱きしめられ、驚く。

「っ……」

そうした対応がわたしを混乱させることをなんで、なんで分かってくれないの。

「カレー、もう作らなくていいからな」

「うん……うん……」

そう言ってもらえた途端、何もかもが赦された気がして、涙がふたたびこぼれ落ちた。

雅久お兄ちゃんの腕に包まれているうちに、いまなら全てを終わらせてもいいと本気で思ってしまった。

『分かった、カレー、もう作らないね』

はっきりとこう言えたならどんなにかしあわせか。

けど、“うん”としか言えなくて。

だめだなあ、本当に、とこんな自分をふがいなく思う。

「……明日、どこかに行くか?」

「……えっ?」

予想だにしなかった質問をぶつけられて心臓が止まりかけた。

「ほら、最近二人でどこかに行くとか、そういうのが全くなかっただろ?」

「……うん」

――わかってくれていたんだ、雅久お兄ちゃん。

わたしと向き合ってくれているいまがうれしくて、ますます涙に咽ぶ。

「どこに行きたい?」

「雅久お兄ちゃんとなら、どこでもいいよ……」

「喫茶店に行くか?」

「……うん」

「遊園地でもいいし」

「……うん」

“しあわせ”ってきっとこういうのを指すに違いない。

本当、このひとしかわたしに幸福を与えられないんだな、と痛切に感じた。

――突き放せないのは、あなたがやさしいから。

あなたを突き放すなんて、できない。

突き放すなら、死んだほうがいい。

「……雅久お兄ちゃん」

「……ん?」

「明日が見えないくらい、しあわせで……。ごめんね……ごめん、なさいっ……」

「いいから、な?」

「うん……うん……ごめん、なさい……ごめんなさい……」

「いいから、謝らなくても」

「うん……うん……」

“うん”と返答するのがやっとで。みたされた胸がとてもあたたかで。

『どこに行きたい?』

そう聞かれたとき、『天国』と答えかけた。

けど、わたしはとっくに天国にいる。

明日、別に出かけられなくてもいい。寝室のベッドで一日中あなたと横になっているだけでも構わない。

「歯磨き、してくるね」

「ああ、行ってこい」

ほどかれた腕がわたしからするり、と離れた瞬間、それにすこしのさみしさを感じてしまった。

ベッドから立ち上がり、寝室を出て洗面所に向かう。カレーを浄化するためにも念入りに歯を磨こうと考えた。

洗面所で入念に歯磨きして、穢れを落としてから寝室に戻る。

と、雅久お兄ちゃんはマールボロを物憂げなふうに燻らせつつ、カーテンに見入っていた。

「雅久、お兄ちゃん?」

「……ああ」

声をかけると、わたしの存在にいまさら気づいたみたいにわたしを見、笑み顔を作る。

完璧な笑顔に胸がちくりと傷んだ。

「ごめんね、遅くなって」

「ああ、いいよ、別に」

やっぱり、無理、しているのだろうか。

「無理、してる?」

「いや、してないけど」

「……そっか」

ぎこちなくわらってその場をやり過ごした。

が、次第に妙な気分となり、リビングルームに行って食器類でも洗おうかな、と逃げ道を作ろうとしてしまう。

「大丈夫だから、怖がらなくてもいいから」

「……うん」

雅久お兄ちゃんの隣に腰を置き、両足をブランコみたいにぶらぶらとさせる。

わたしのしあわせはやっぱり、ささいな出来事がきっかけですぐ粉々になる。

「……不安か?」

「……えっ?」

「なにか、不安なことでもあるのか?」

「……いや、別に……」

「……そっか」

『雅久お兄ちゃんがわたしにあきれて、どこかへ行ってしまいそうな予感がして怖いの』

喉元まで出かかったその言葉を飲み込み、「……明日、楽しみだなあ」とつぶやけば、「……俺もだよ」と返ってきた。

その横顔をちらっと見ると、そこにはおだやかな笑顔がうかんでいて。

わたしもつられて笑顔になった。

――こうした時間がわたしたちのあいだにどうか、ずっと流れ続けてほしいと祈る。

これは、わがままな願いなのだろうか。

端正なその横顔を眺めている間に、起きるたびにベッドの余白がこの胸を締めつける朝はもう嫌だ、と思ってしまって。

雅久お兄ちゃんと毎日こうして過ごせているのに、彼の職業を否定するみたいに朝のかなしみを受け入れられないわたしは、裁かれて然るべき人間なのだろうか。

“もうひとりにしないで、雅久お兄ちゃん”と言いたい。

朝の陽射しがどんなにやわらかでも、毎朝ひとりきりという事実がわたしを孤独にして、わたしを死に追いやろうとする。

孤独な朝に、疲れてしまったの。

「詩子」

名を呼ばれてハッとした直後、雅久お兄ちゃんがわたしの脣にそのやわらかな脣を重ねた。

どんな薬よりも効果覿面なその脣でわたしを治療するなんて、ずるい。

こんなの予想していなかった。

そして、それはわたしから離れた。

「風呂、一緒に入るか?」

「……うん」

「じゃあ、沸かしてくるから」

『生きていてもいいんだよ』

いま、この男がわたしを肯定してくれた気がして、たまらなく泣きたくなった。

泣いてばかりなのはこの男をどうしようもないほどに愛してしまったからで。こんなどうしようもないわたしを救えるのはこの男だけなのだ。

雅久お兄ちゃんは、煙草を灰皿に押しつけてこれの火を消したあと、ベッドから立ち上がりバスルームへ向かおうとした。

「……ごめんね、まだ、傍にいて……」

そんな雅久お兄ちゃんの服の裾をぎゅっと掴み、こう願ったのは祈りに似ていた。

「いいよ」

そう言ってベッドに腰を載せ、わたしにふたたび寄り添ってくれて。

結局、そのやさしさから抜け出せないままでいる自分はもう末期だな、と思った。