第九章

愛の不在

朝。

いつも通り起きると、雅久お兄ちゃんは今日も隣にいなかった。

「っ……」

指輪が、ひんやりと冷たくて。

ベッドの余白を今日は一段と冷たく感じる。

ベッドで横になり、天井を見つめる。

昨日、指輪を買いに行ったばかりだというのに。翌朝、あの男は、わたしをまたひとりぼっちにして、違う女とのんきに時間を共有しているのだ。

どうすればいいの、本当。

耐えられないよ、もう。

枕元に置いたスマホを手に取り、LINEを起動する。

「いま、何をしているの?」

雅久お兄ちゃんにこう送信しかけて、やめた。

雅久お兄ちゃんをもとめるよりユヅキ君をもとめるほうが理にかなっている。

ユヅキ君にメッセージを送信しよう。

ユヅキ君のアカウントをタップしてトーク画面を開き、キーボードをぽちぽちと操作して文字を打ち込んだ。

――「おはよう、ユヅキ君」。

この一文をなんのためらいもなくユヅキ君に送信した。

送信後、ほっと吐息を洩らす。

ユヅキ君はやっぱり救世主だ。

通知音がすぐに鳴り、LINEの吹き出しが画面の下にぽん、と現れた。

「おはよう、ウタちゃん。また馬鹿兄貴のことで悩んでるの?」

“馬鹿兄貴”というストレートな四文字にわらいをこらえきれず、つい吹き出してしまった。ただ、雅久お兄ちゃんを端的に表すと、馬鹿兄貴の四文字がしっくりとくる。

「うん……まあね。というか、会える?」

「会えるよ。いつもの喫茶店でしょ?」

「そうだよ」

「了解。今すぐにでも会えるけど、何時でもいいからね」

「ありがとうね。じゃあ、いつもの喫茶店で」

「はーい、また連絡してね」

「うん」

むなしさを埋めるためだけにユヅキ君とこうして会うのもいったい何度目なのだろうか。

大学時代。講義室でユヅキ君がわたしの隣に偶然座ったことから全てが始まった。

『レジュメを忘れちゃって、ごめんね。それ、見せてくれない?』

子犬を連想させるような甘え声でそう懇願されて、仕方なしにレジュメを見せたら『ありがとう!!』とすごく喜ばれた。

当時のわたしには「友達」と呼べるような存在が大学に一人もいなかった。

『お名前は?』

『月雪、です……』

『違うよ。下の名前だよ』

『詩子、です……』

――なんなんだ、この押しの強い男は。

その押しの強さにたじろぐわたしを他所に『ありがとうね、ウタちゃん。僕は相良悠月といいます』と、ユヅキ君は自己紹介した。

『相良、君……』

『うん、相良君じゃあよそしいからさ、ユヅキ君、って呼んでよ』

『ユヅキ、君』

『よし、合格』

いったいなんの試験の合格したのか。

次第に変な気分になり、思わずしかめ面になる。こんなわたしをユヅキ君は見逃さず、『……ウタちゃん。そんな顔したらさ、せっかくの美しい顔が台なしだよ』とすかさず指摘した。

『うん……』

そんな顔ってどんな顔なのか。

疑問が湧いたもののそれを押し殺して笑顔を作る。と、ユヅキ君がいきなりあははとわらい出して、何をしてもうまくいかないな、と落胆する。

……まあいいか、別に。

『……本当に面白いね、ウタちゃん。最高だよ。今からなにか食べに行かない?』

『……うん』

出会って早々からなにかを食べに行くとの展開に驚く。その一方で、こうした誘いを初めて受けたのがとても嬉しかった。

牛丼でもいいし、ラーメンでもいい。とにかくなんでもいいから、彼とおいしいご飯を食べながらたくさんの出来事を語らい、大学生活の孤独を紛らわせたかった。

わたしにとっての大学生活とは、とにかく、いつでも、孤独との戦いだったから――。

その後、誘いを承諾し、荷物をまとめてから講義室を出て、近くの牛丼チェーン店に移動した。

そこでわたしは並盛の牛丼を、ユヅキ君は大盛の牛丼を注文し、それを食べながらお互いにいろんな話で盛り上がった。

そうして、知り合ったばかりだとはおもえないほどに打ち解けて、気づいたときには既に一時間以上が経過していた。

『ご、ごめん……こんな話に着き合わせちゃって……』

『いいよ』

ユヅキ君の笑顔に安堵した直後、『この後せっかくだしさ、ホテルでも行く?』とホテルに誘われ、ギクッとする。

まさか、ホテルに誘われるとは思わなかった。

……でも、頭では解っていた。

男性と過ごすときはきちんと警戒すべきなのを。

『……そうだね、行こっか』

『うん!』

薄暗い店内で異性と二人、ホテルの話をしているこうした自分に背徳感を感じてしまう。

ホテルへ行くのは、決まった。

取り消しは、いまさらできなかったから。

――あの日。

わたしたちは店内を出たあと、近場にある格安のラブホテルに行って、初めて体を重ねた。

あの初めてからどれほどたったのか。

あれから何度も体を重ね、わたしたちの関係はただの友人から俗に「セフレ」と呼ばれる関係に変化した。

「むなしくないのか」と聞かれたら「むなしくない」と答える。

なぜなら、ユヅキ君は行為のたびわたしに快楽だけでなく、痛みも与えてくれるから。

むなしいのはむしろ雅久お兄ちゃんとの事後だ。

雅久お兄ちゃんもいっそ、ユヅキ君みたいにわたしをとことんまで痛めつけてくれたらいいのに――。

けど、雅久お兄ちゃんはわたしを痛めつけてはくれない。だからこそユヅキ君に「お願いだから痛めつけて」と懇願するしかないのだ。

これが歪んだ愛の形であるのを解っていながらも、これをもとめるのをやめられない。

いったいいつになれば、これがやめられるのか。

――ベッドから起き上がり、ぼんやりと放心する。

昨夜に雅久お兄ちゃんと共有した体温はとっくに熱を失ってしまって。わたしの心を支配するものはその余熱ではなく、広大な虚ろだった。

その虚しさを埋めるためにもユヅキ君の体温をもとめる。

化粧してお気に入りのワンピースに着替えたら、その上からカーディガンを羽織ろう。

ユヅキ君にまた、徹底的に痛めつけてもらうんだ。

左手薬指に装着したリングをジッと見る。

このリングは、雅久お兄ちゃんとの繋がりを証明してくれるアイテムだ。

けど、その相手がいざというときに限って傍にいないのなら、これはなんの意味もないんだよなあと悲しい気持ちになってしまって。リングを処分したい衝動に駆られた。

「っ……」

何をしても、ひとりで。

だから、痛みをもとめてしまう。

胸が、痛い。

泣きたくなった。

けれども、泣いてばかりではいられない。

泣きべそをぐっとこらえてベッドを抜け出す。

どうでもいいや、と。投げやりな気分のまま茶箪笥を開けて、なかからお気に入りのワンピースを取り出した。

もう、死んだほうがいいのかなって。

こんな希死念慮に襲われるわたしはよわいのだろうか。

――ユヅキ君にここにきてもらおうかな。

いろんなことを考えながらパジャマからワンピースに着替え、これの袖に腕を通した。

タスクを一つ処理した。

が、化粧、歯磨きやブラッシングなど、まだこんなにも残っているタスクに吐息が洩れた。

寝室のドアを開けて洗面所に行ってそこで化粧、歯磨きとブラッシングを済ませた。

洗面所の鏡で身だしなみをチェックする。

みだれた点は特にない。

確認を済ませた後、キッチンへ向かう。ユヅキ君に会う前に軽食を済ませておこうと考えたからだ。

冷凍食品のグラタンでも構わないだろう。

朝食を作るのが面倒で、別に手抜きでもいいか、とついずぼらになってしまう。

自分をもし大切にできたなら、朝食作りを面倒だと思わずにこれをきちんと作って、目玉焼きを焼いたりサラダまで作ったりして。おいしい朝食を自分のために作ったのかもしれないなって。

虚しさに襲われながら冷蔵庫を開ける。

なかから海老グラタンを取り出し、このパッケージをビリッと破いて、これを電子レンジに突っ込んだ。

電源を入れ、これを起動させた瞬間に庫内灯が灯った。

ピン、と張ったラップフィルムの下で海老グラタンがじわじわとあたためられてゆく。

その様子を見るともなく見ていたとき、『自分をもっと大切にしろよ、詩子』という雅久お兄ちゃん声が耳許で鮮明に響いてハッとした。

幻聴、なのか。

その瞬間に食欲がすっと消えた。

電子レンジの電源を落として扉を開けて、なかから海老グラタンを取り出し、それをゴミ箱に廃棄した。

――ユヅキ君と朝食を食べよう。

この海老グラタンは廃棄が正解なのだ。

ゴミ箱を離れ、バッグを手にして寝室に引き返す。

寝室に戻り、バッグをベッドの傍に置いてからベッドで横になった。

スマホを手にし、LINEを開いた。

「もう会えるよ。朝食、せっかくだし一緒に食べない?」

「いいよ。馬鹿兄貴の話もいっぱい聞かせてほしいし。朝食、一緒に食べよっか」

立て続けに「今からいつもの喫茶店でいい?」とのメッセージが届いた。

ただ、喫茶店で朝食を食べる気分ではない。そこで朝食を食べたあと、お決まりの流れでホテルにどうせ行くのなら、最初からそこに行ったほうがいい、と投げやりにも似た気分になってしまって。

「んー……ホテルで朝ご飯は、どう?」

送信後、またしてもすぐに既読がつく。

ユヅキ君はもはや既読職人だな、とわらってしまった。

「別に構わないけど。喫茶店の気分じゃない感じ?」

「うん……」

一言、『うん』とだけ書いて送信する。

「了解、いつもの喫茶店の付近の外観がピンク色のホテル、分かるかな? そこで落ち合おうか」

「分かるよ。了解、そこで落ち合おっか。ありがとうね」

こう書いたメッセージをユヅキ君に送信してやり取りを終えた。

今日は喫茶店の気分ではなく、ホテルの気分とでも言えばよいのか。ホテルに直行してそこで朝食を食べたあと、ユヅキ君からそのまま痛めつけてもらいたい。

今日はこんな気分だった。

殴打、打擲――自意識を吹き飛ばして、全てを忘れさせてくれるこれらをユヅキ君はいつだって、なんのためらいもなくわたしに与えてくれる。

今日もきっと、たくさん殴って、たくさん打ってくれる。

痛みは、わたしの世界を浄化してくれるから――。

と、「例のピンクのホテルの付近にたまたまいたから、チェックイン、もう済ませておいたよ。二〇一号室ね。ホテルの名前だけどスワンって名前だから」とのメッセージがユヅキ君から届いた。

ホテルの名前、スワンっていうんだ。

ピンク色の外観に白鳥――ラブホテルにありがちなネーミングだと思った。

「チェックイン、ありがとうね。いまからそっちに向かうね」

返信後、スマホをベッドに置く。そっちに向かうね、と送信したまではよかったものの、ベッドで一度横になると起き上がる気力が失われてゆく。

ホテルに、行かなくちゃ。

けど、起き上がるのが億劫で、体が動かない。

ごろんごろんとベッドで寝転がり、ホテルに向かう気がようやく起こった。

起き上がり、バッグを手にする。それから玄関にやってきて、お気に入りのストレッチブーツを履いた。

このストレッチブーツはイベントや勝負事の日にだけ履くと決めている特別なブーツなのだ。

それを履き終え、準備が完全に整った。

あとは――スワンに向かうだけ。

玄関ドアを開けて外に出る。

空を見上げれば、今日の空も隅々まで晴れ渡っていて。

今日も絶好のお出かけ日和だ。

その後、玄関ドアの鍵を閉めて、ユヅキ君が待つホテル――スワンに向かって一歩を踏み出した。