第十二章

原初的な欲求

風呂から上がり、ソファに深々と身を沈める。その隣ではユヅキ君がニュース番組を黙って視聴している。

部屋を充たす静けさは重くもなく心地よくもなく、時間だけが経過してゆく。

と、ニュース番組に飽きたのだろう。チャンネルを落とし、こちらへと視線を向けた。

いたずらめいた、けれども底の読めない謎めいたわらいをうかべて、「ウタちゃん」と名を呼んだ。

「……なに?」

怪訝な表情で問い返せば、手首をいきなり掴まれた。笑顔でありながらどことなく計算めいた仕草を前にして、抵抗する気が失せた。

ずるいくらい甘いその笑顔が反抗心を奪い去る。その笑顔を前にした途端、わたしはただ彼の言いなりとなるだけだ。

手首を掴まれたまま硬直する。と、いきなり立ち上がらされて、足元が大きくよろけてしまった。

が、ユヅキ君がわたしを素早く支えてくれたおかげで事なきを得た。

「あ、ありがとう……」

「いいよ」

笑顔とともにわたしをベッドに連れてゆく。

手首を引っ張られたことで足元がふらつき、ベッドに倒れ込んでしまった。ただ、それが衝撃を吸収してくれたおかげで痛みは感じなかった。

体勢を立て直すよりも先にユヅキ君がわたしに覆い被さる。わたしの行動を妨害する彼に苛立ちながらも結局あらがえなくて――。

なにをしようとわたしは彼の従者。これを理解しているからこそ足掻く気力も反抗する気力も削がれてゆく。

ユヅキ君をおずおずと見上げれば、彼は、目標を達成して心底から満足しているふうなほほ笑みをうかべていて。

端正な顔にうかぶ魅惑的なわらいは、わたしのなかに眠る情欲を煽り立てるほどの強い力を持つ。

視線を逸らせば、ユヅキ君の指先がわたしの顎にすっと伸びた。

その感触に背筋がゾクリとし、脣がかすかにふるえた。

「……怖い?」

こくんとうなずく。と、頭をやさしくなでてくれた。

『大丈夫だよ』と言いたげな仕草。ユヅキ君なりに恐怖心をやわらげようと必死なのかもしれない。

すこしだけ、そのやさしさに救われた気がした。

「……どうしてほしい? ウタちゃん」

――解っている。

答えは『打擲』だ。

今日の打擲はいつもよりハードかもしれない。けど、痛みが強ければ強いほどに自意識も日々の苦悩も苦痛が消し去ってくれるから。

――わたしにはユヅキ君が与えてくれる苦痛が必要なのだ。

「……痛めつけて。お願いだから……とにかく痛めつけて」

「……本当にいいんだね?」

「……うん」

『うん』と返答すれば、納得した様子で立ち上がる。直後、脇腹を強く蹴られ、強い痛みがわたしを襲った。二発目がすぐさま重なり、あまりの痛みに体を丸める。

ユヅキ君を見上げれば、先刻のやさしさはどこにもなくて。そこにいるのは、わたしをただの対象として見下ろす、氷のような冷たいまなざしを内に秘めた、別人みたいな男だ。

その豹変ぶりになかなか慣れなくて、ユヅキ君の眼がわたしを見るたび、心臓が圧迫されて苦しくなる。

「痛いっ……」

「だって、痛めつけてほしいんでしょ?」

そう言われてしまっては反論できない。

それに、否定すれば怒らせてしまう。

ユヅキ君の機嫌を損ねないように細心の注意を払う。

「嫌なら嫌、って言ってもいいんだよ」

「う、ううん……」

――本当は、痛みが足りない。

深くまで届く痛みをもっと、与えてほしい。

「そっか」

直後、髪をぐいっと乱暴に引っ張られた。

「ぎゃあっ!!」

頭皮に激痛が走る。

悲鳴を上げたわたしを見るユヅキ君の目は同情ではなく、純粋な興味と愉しさに充ちていた。

髪を繰り返し引かれるたびに余分な意識が削ぎ落されていって、痛みだけが世界の中心になる。

「どう?」

「いたいっ! いたいっ!!」

――ユヅキ君のわらい声が耳に刺さる。

ユヅキ君の持つ加害性がわたしを支配し始めて、感情が分からなくなる。

ただ、こんな男だからこそわたしを救えたのだ。やさしすぎるひとだったらわたしを決して地獄の底から救い上げられなかった。

髪の毛が抜けるのではないか、と心配になるほどの激痛に涙がにじむ。

にじんだ涙が頬を伝って、布団にぽたりとこぼれ落ちた。

と、髪の毛が突如解放されて、ベッドに倒れ込む。髪の毛をもてあそぶのに飽きたのかもしれない。

次はなにがくるのか、と身構える。

脇腹、髪、次は――。

「ウタちゃんの体に印を残してもいいんだけどね~。そうしたら、馬鹿兄貴、困惑するでしょ?」

ゾクリとする。

印――キスマークだと瞬時に悟り、冷汗が滲む。

けど、雅久お兄ちゃんはその印を見ても特に、なにも、おもわない。

そこがまた、苦しい。

雅久お兄ちゃんにとってのわたしとは、いったいなんなのか。

解らないから、こんなに苦しいんだ。

「……なんでもいいよ」

なんでもいいよ、と自暴自棄みたいに発したあと、数秒の沈黙が流れる。

「……ふうん」

次の瞬間、体をどん、と勢いよく蹴られて、仰向けにされた。

重なる影と鎖骨に触れる脣――。

証拠を残す前の愛撫に心臓がドキドキと高鳴る。

これを雅久お兄ちゃんがもしも見たら――。

けど、特にないも思わないのだろうな、と悲しくなってしまう。

この印を見ても、誰かとそういう行為をしたんだろう、だけでこれを片づけるに決まっている。

月雪雅久とは、そういう男だ。

「っ……」

淡々とした動作がわたしの欲情を逆に煽り立てる。頭の芯がかっと火照って、本気でおかしくなってしまいそうだ。

逃げるように身を仰け反らせば、「ねえ、逃げるの?」と尋ねられ、逃げ道を塞がれてしまう。

この男は本当に、どこまでも狡猾だ。

「に、逃げないからっ……」

「……逃げないんだね?」

「うん……」

納得したようにほほ笑む表情を見て、この男から逃げる術はない事実を悟る。

体から力が抜けてゆき、ベッドに身をゆだねる。諦め、快感、混ざり合った感情と疲労。これらがごちゃ混ぜとなってわたしに重くのしかかる。

頭がぼんやりとしてなにも考えられない。

ユヅキ君はこんなわたしをおもしろがるみたいに、くつくつと喉を鳴らしてわらった。

ユヅキ君のペースに飲まれているのを自覚しながらも、これをどうにもできない現実がなんとも歯痒い。

体勢をずらした瞬間、鎖骨に鋭い痛みが走り、ハッとする。

ユヅキ君の痕が鎖骨にくっきりと残った。

独占欲か。はたまた、ただの気まぐれか。

それとも、なにかべつの意味が――。

「猿轡とか、目隠しがあればもっと面白いんだけどね~」

無邪気にそう話し、「んー、器具を使ってウタちゃんの弱いところを徹底的に虐めてもいいんだけどね」と続ける。

「そっ、それは……」

わたしの不用意な発言がユヅキ君の機嫌をもしも損ねてしまったら――。

やっぱり、口を噤むしかない。

「……ねえ、どうしてほしいの?」

「っ!……」

「目をきちんと見て、答えて」

「……ユヅキ君の好きに、してっ!……」

自分のこうしたあまりもの主体性のなさに、自嘲に似たわらいが込み上げた。

「……へえ。僕はさ、ウタちゃんの全てが好きでね。ウタちゃんが苦しむ姿も好きなんだよ」

「……うん」

「だからさ、ウタちゃんを虐めたくなるんだよ。分かるかな?」

と続けた。

「うん……」

穏やかにほほ笑み、有無を言わせぬ空気を作り出す。その空気に気圧されて押し黙った。

だんだんと恐ろしくなってきたな、と思考が委縮してしまって。逆らったらなにをされるかわからない上、どうなるかわからない。

頭が、いたい。

髪を引っ張られて、頭が割れそうなほどいたい。

「あたまが、頭が痛いっ!……」

「苦痛に歪んだその顔、最高だよ! ウタちゃん!」

「っ……」

今日の打擲はこれでも軽いほうだ。普段の打擲はもっと酷く、深く残る。

「……けど、本当は分かっているからね。今日はもう限界なんでしょ?」

 限界かどうかを聞かれて、正直に首を縦に振る。

それに納得した表情を見せ、髪から手を離す。突然力が抜けて、顔面をベッドに強打してしまった。

「痛っ……」

 なんとか体を起こし、乱れた服を整える。

なぜだろうか。

今日の痛みは、いつも以上に胸を貫いた。

すると突然、わたしをぎゅっと抱き寄せて、頭をなでた。

「無理しなくてもいいんだよ」

あんなにもわたしを痛めつけていたひととはおもえないほどのやさしさ――。

こんなにもやさしくするなんて――反則だよ、ユヅキ君。

「うん……うん……」

やさしさにおぼれて、呼吸を忘れそうになる。

痛みを向けたあと、いつもこんなにやさしいあなたは、残酷なほどずるいひとだ。

その腕につつまれながらおもった。このあたたかさにつつまれたまま、いっそ全てが終わればいいのにと。