第十一章

欲望の赴くままに

指輪に重なった手が、熱い。

金属をじわじわと溶かすような熱が全身へと伝播して、体が火照り始める。

ユヅキ君の指先が指輪をなぞるたびに、官能的な刺激が五感をゆっくりと侵してゆく。

刺激から逃れようとその手を振り払おうとすれば、手をさらに強く握られて。

こんなふうに逃げ道を塞ぐなんて本当、反則級のずるさだと思う。

「……」

「……何? なにか文句でもあるの?」

わたしの顔がよほど不服を訴えているように見えたのだろう。ユヅキ君が威圧的な声でそう尋ねる。

「別に……なにも……」

「ふうん」

期待外れの返答だったのか、つまらなさげにふうんとつぶやき、ベッドから立ち上がって服を脱ぎ始めた。

――ついに始まる。

服を脱ぐ。それは『いまから儀式を始めるよ』というユヅキ君からの合図だ。

意味を理解して身構える。

わたしも服を脱がなければ。

そして、服を脱ぐべく起き上がったなり、「ああ、脱がなくていいよ」とわたしを即座に制した。

――いったい何を考えているのか。

思考回路を読み解けないままに「う、うん」と納得したふりをして、服を脱ぐユヅキ君の姿を見守る。

「……だって、いきなり服を脱ぐなんてさ、興醒めでしょ?」

わたしの顔をチラリと見、口端を妖しく吊り上げる。

「……うん」

「そういう意味だから」

そう言って、脱いだ服を畳み始めた。

丁寧に畳まれた服がユヅキ君の几帳面な内面を物語っている気がして。

几帳面なのにわたしへの行為は容赦ない。

わたし以外の女性にはやさしいのだろうか。これを気にし始めたら関係が崩れるとわかっているのに、それでもこれを気にしてしまう自分は本当にどうしようもない人間だ。

ベッドに横たわり、ユヅキ君から目を逸らして天井を見つめる。

視界一面に広がる天井とは対照的に、あまりにもちっぽけな世界に囚われている自分に泣きたくなった。

このちっぽけな世界から抜け出すための手がかりはどこにも、ない。

「ウタちゃん」

名前を呼ばれてわれに返る。

気づいたとき、ユヅキ君の影につつまれていた。

わたしの顔を見据える、そのあまい瞳に囚われた瞬間に覚悟せざるを得なかった。

いくら抵抗しようと逃げ場は始めからないのだと。

「っ……」

「……いい?」

一拍置かれたあと、耳許に脣が寄せられる。そのあまく、やわらかい声音に首を縦に振る。

その声音は、わたしの脳髄を痺れさせてまひさせるほどの力を持つ。

輪郭を溶かして曖昧にさえしてしまう。

支配されたあとはユヅキ君の打擲にただ盲目となり、それにおぼれるだけ――。

首筋をなでる指先の動きは、雨粒がアスファルトに染み込むみたいにゆっくりで。指先が首筋へと滑り落ちてゆくこの刺激に体が過敏に反応する。

身を捩れば、『わたしを逃すものか』と言わんばかりにその双眸がわたしを威圧した。

その眸子に怯んだ瞬間、ユヅキ君の気配が静かに入り込んできた。

ユヅキ君の気配が全身に浸食してゆき、呼吸のリズムがみだれ始める。意思という意思が奪われてうまく呼吸ができず、胸が熱くなる。

呼吸が、苦しい。

「っ……はっ……ゆづ、き、くん……」

絞り出すように紡いだその名前はふるえていた。わたしのありさまを愉しんでいるみたいに、余裕のないわたしを鼻でわらった。

脣がすっと離れる。

「くるしっ……」

「そんなに? もっと、と言わんばかりなあまーい顔をしていたけどね、ウタちゃん」

「っ!……」

雅久お兄ちゃんもユヅキ君も理詰めで迫ってくるところが本当に苦手だ。理屈で追いつめられると、思考回路が狂って逃げ場を塞がれる。理性を根こそぎ剝ぎ取られ、本性を暴かれる気がして――。だからこそ理詰めが大嫌いなのだ。

「……そんなこと、ないけど」

「苦し紛れの否定はいいから、ね?」

やわらかな声でそう圧をかけた。

反論を許さないその沈黙に捩じ伏せられてわたしはただ口を閉ざす。

ユヅキ君に対しても雅久お兄ちゃんに対してもいつもこうだ。けど、雅久お兄ちゃん以上に彼は余白を与えない。

だからこそ、言い訳が許されないのだ。

衣服のなかに手が忍び込み、これを紛らすみたいに唇がふたたび触れ合う。

主導権がない。これは実権が相手にあるのを意味する。わたしはただ、相手が与える狭い自由のなかで息継ぎするだけ。

あとにはもう、引き返せないから。

その手が素肌を愛撫する。

下手に反抗すれば愛撫の勢いが激しくなるだけだ。

ユヅキ君はいつだって容赦がなく、わたしを甘やかさない。

わたしを追いつめるかのごとく愛撫が加速してゆき、わたしがその愛なで感じれば感じるほどにユヅキ君の心は満たされてゆく。

雅久お兄ちゃんもユヅキ君も、わたしの理性をどうすれば壊せるかを熟知している。そんな彼らを前にした瞬間、二人の言いなりになるしかない。

「っ……はっ……ぁっ……」

もうだめだと観念して、彼の背に手を回す。

その手が合図となって、口づけがいっそう深くなった。

深い口づけに身をゆだね、ユヅキ君の脣を求める。

その口づけは全てを忘れさせてくれるからこそ、それが持つ力に逆らえないのだ。

脣が離れる。

ユヅキ君の双眸がわたしのかんばせを捉えた。

その双瞳に宿る、肉欲を渇望する煌めきに捕らわれて、身動きが取れなくなる。

そのあまい顔に潜む野性的な欲望――。

ああ、逃げられない。

にこり、と意味深にわらうユヅキ君を見て、なにかを目論む彼に気づく。

いったい何をするつもりなのか――。

身構えた直後、ワンピースをまくり上げられる。

告知もなく行われたそれに動転し、飛び起きようとする。

が、手首をすかさず掴まれてしまい、いとも簡単に行動を制限されてしまった。

逆らうよりも従うほうが早いと理解して、ベッドでふたたび横になる。

直後、胸元に迫る顔の気配に五感が敏感になる。どこをどうすればわたしがみだれるのかを理解し尽くしたその挙動に呼気がみだれる。

ユヅキ君の手が下へと移動してゆく気配に限界を感じ、「も、もう……っ……」とリタイアを訴える。

わたしが限界を迎えようと、己が満足するまで手を止めるつもりはないようだ。

「……なあんだ、濡れてるじゃん、ウタちゃん」

からかうような声でげらげらとわらうユヅキ君は真正のサディストだ。

なぜ、この男を嫌いになれないのだろうか。

「……もっといじめたくなる」

耳許に落ちた声はあまく、狡猾だった。

もしも拒絶したらいったいどうなるのか。

想像するだけで体がこわばる。

ユヅキ君のなすがまま、首を縦に振る。と、わたしのかんばせを見つめて満足げな表情をうかべた。

結局、従順なわたしこそがユヅキ君のお気に入りなのだと、その表情から理解してしまう。

「ありがとうね」

「う、うん……」

うなずくことしかできない。

こうしてわたしはユヅキ君に隙を与えてばかりいる。

改善しなければならないのに、できない。

黙り込んだそのとき、下着を一気に脱がされてあぜんとする。

脱がせたあと、それを床に放り投げた。

結局のところ、わたしはユヅキ君の快楽を満たすためだけのお人形に過ぎないのだ。

この事実を突きつけられて、胸が痛む。

でも、これがわたしたちのしあわせなら、これでいいのかもしれない。

ユヅキ君に行為の主導権を握られながら、ぼんやりとこう考えた。

「……どうしてほしい? ウタちゃん」

ふいの質問に激しく戸惑う。

行為の流れをどうするか、との質問がまさか飛んでくるとは思わなかったから――。なにより、流されるほうが楽だったからこそ、行為をどうしたいかなんてなんにも考えていなかったし、考えていない。

「どうしてほしい、って……」

「じゃあ、そろそろ?」

そろそろ、か。

別に構わない。

「……うん」

「分かった。その後にお決まりの流れだね?」

「……そう」

「了解」と承諾し、「今日はそのままでいいかな~」とつぶやく。

そのコントロールだが、完全にユヅキ君の気分次第だ。

ベッドで横になって天井を見つめる。ゆとりのない展開に、もうすこしくらいゆとりがあってもいいのに、とむなしくなる。

ユヅキ君が戻ってきた。

「ねえ、俺の顔を見てよ」

そううながされたもののユヅキ君の顔を直視できず、彼が畳んだ服に視線を向ける。

「ねえ」

呼びかけられて、ユヅキ君と向き合わざるを得なくなる。

仕方なしに視線を合わせれば、逃げ場を奪う真っすぐな瞳がわたしを射抜いた。そんな目で見つめられたらもう、観念するしかないと思った。

どうしてそんなまなざしで見つめるのか。

そんな眼で見つめないで。

「……あのさ」

「……うん」

「左手薬指の指輪だけど、僕、これでも結構苛立ってるんだよね」

「そ、そうなの?……」

「うん。分からないかな?」

「……うん」

その真っすぐさのなかに潜む苛立ちを見抜けなかったまま、ユヅキ君と一緒に過ごしていた。

ユヅキ君が指輪に苛立つわけがないと思い込んでいたし、わたしたちはそもそもただの関係に過ぎないのだから――。

肩を強く掴まれて、痛い。

なんで、いまになって。

左手を握りしめ、ぎゅっと目を閉じる。

「空気を読むのも人の気持ちを汲み取るのも下手なウタちゃんには、徹底的に教え込むしかないみたいだね」

軽い声音でそう話すユヅキ君にゾッとする。それはまるで、堪えていた何かが切れてしまったかのような話しぶりで。けれど、彼を止める勇気もなくて。

わたしはただ、彼の言いなりとなるしかない。

謝るのもなにか違う気がして、黙って待つ。

「挿れるから」

直後、視界が揺れるような覚悟だけが胸に残った。

体が跳ねて息が詰まる。シーツをぎゅっと握りしめて、声に出せない悲鳴を飲み込む。

「っ……」

表情一つ変えないユヅキ君。いま、何を考えているのだろうか。

ユヅキ君の心理が解らない。彼はそもそも己の内面にわたしを踏み込ませない。それはまるで雅久お兄ちゃんのようだ。

淡々と行われる行為は、ユヅキ君が自分の感情を処理するための儀式に思えてくる。

部屋にこもるのは、二人の呼吸と気配が混ざり合った空気だ。

「っ……そろそろっ……」

短く発したあと、ユヅキ君の動きがふっと途切れた。

静寂が戻り、安堵に似た吐息を洩らす。

「風呂、沸かしてくるから」

そう言ってベッドを離れ、部屋から出て行った。

放ったらかしにされたまま、ベッドの上でだらんとする。

『左手薬指の指輪だけど、僕、これでも結構苛立ってるんだよね』

ユヅキ君の発したセリフが脳内でリピート再生みたいに流れる。

指輪に対してなぜそんなにも苛立つ必要があるのか――。

いくら考えても解らない。

今日のユヅキ君はいつも以上にサディスティックだった。

風呂に入ったあと、とことん痛めつけられる。

そんな予感に複雑な心境だけが胸に残った。