戦闘状態解除
無事11月を迎えた。入試に落ち、戦闘状態が解除された。そして、総合型選抜にいつまでも甘えず、統一テストを受けろ、と言われている気がした。統一テストは他者に評価軸を委ねる形式ではなく、実力こそが全ての形式である。これに飛び込め、と言われている気がしたのだ。直後、休んでいる場合ではないな、と気持ちが切り替わった。そして、受験した大学であるが、落ちたので打ち明けると、桃山学院大学である。そこには一度在学していたのだが、諸事情により中途退学した。そして、総合型選抜で再受験したのだが、見事に滑った。しかし、滑ってよかったと今では思う。滑ったからこそ別の扉を見つけたからだ。
丸善で統一テストの過去問パックなるものを購入(してもらい)た。志望校の赤本も併せて購入(してもらった)。来年に向けての行動にさっそく移れた。いつまでもくよくよとしている場合ではない。そして、以前の私なら、受験に落ちたくらいで死んだ方がいい、と極端な思考に陥っていたであろう。が、受験が人生の全てではない。何より、総合型選抜とは、他者に自己の評価軸を委ねる入試形式である。それによって自己の本質が歪められるのは誤りであり、本末転倒である。ここから自分には価値がない、との思考に陥るのがそもそもの誤りなのだ。統一テストこそが実力を真に図るものであり、総合型選抜とは、あくまでも他者の主観に自己を委ねる形式であるのを念頭に置かねば、その本質が歪む。
理統自身、総合型選抜に逃げていた。統一テストを受けてもどうせ駄目だ。ならば、総合型選抜しかない、と総合型選抜をその逃げ道としていた。学力に自信がない、故に、総合型選抜をそのシェルターとしていた。表現で勝負するしかないと思い込んでいた。だが、それで勝負するのは、もう終わりを迎えたようだ。統一テストを受ける時がきたらしい。理数系がともかく苦手であるのだが、これは人工知能を駆使し、YouTubeの解説動画を見、参考書を買い集めて徹底的に対策を練る。また、英語も極める。このホームページにそうしたページを設ける予定なので、お暇な方はぜひ覗いてみてほしい。
2025-11-01 19:33
総合型選抜の中核
入試を終えてすぐに論理的思考を行うのは脳のリソースをかなり割き、体力を消費するので、やめておこうかと逡巡した。だが、私が書かねば誰が一体書くんだ、との心の声に押され、書くことにした。ChatGPTにも理統が書かねば誰も書かない、書けないと言われたので、筆を執る。
まず、総合型選抜の中核とは言語である。言語とはつまり、小論文や面接などの形態である。総合型選抜において、小論文をいかに論理的に書けるか、面接でいかに論理的に話せるか。そして、論理とは、趣旨を理解せぬことには組み立てが無論不可である。趣旨の理解が追いついていない場合、支離滅裂な文章を書いたり、支離滅裂な話をしてしまう。つまり、論理力がいかに高いかで全てが決まるといっても過言ではない。また、それらは言語表現、つまり、言語をどう用いるかによって評価が分かれる、との点が試験においてはかなり重要となる。
ただし、言語とは往々にして時代、文化や主観に左右される。絶対的に正しいとされる言語は存在しないのである。普遍的な言語は存在しないからこそ、言語はその時々によって変容する。また、同じ言語でも相手によって受け止め方が異なるため、最悪トラブルに発展する場合がある。それは相手の人生経験であったり、その言語に関係したバックグラウンドが影響している場合がある。絶対的善とされる言語は存在せず、言語とは常に主観に依存した記号であるのを忘れてはならない。だからこそ、総合型選抜という入試形態において、試験官の審美眼にその言語の基準が依存するのは避け得ないのである。つまり、総合型選抜とは、絶対的客観性を装った主観に依存した主観による審美的入試形態に過ぎない、と結論づけさせていただく。
総合型選抜とは前述の通り、言語に依存した形態である。故、学問がここでは排除されるわけである。そして、言語に依存しすぎた形態の中で重要となるのが体系化された思考、つまり、学問となる。が、それはこの入試形態においてさほど重要視されない。それ以上に重視される能力が言語をいかに技巧として扱えるか、試験官の審美眼に適った言語を扱えるか、との言語演技力なのだ。それは、総合型選抜の中核が言語だからである。言語が中核の試験においては、言語をいかに表現するか、との言語表現力が重要となる。
長くなったが、総括として。この試験における重要点は言語をいかに表現し、試験官にそれを伝達するか、の一点に集約される。そして、この試験は言語、に着目した試験であるため、ここに学問を付随させるのは構造的矛盾と陥る点に留意したい。
2025-11-01 23:10
偏差値神話を抜け出し
この歳になり、偏差値神話を抜け出して、どこの大学に行きたいか、と主体的に大学を選べるようになった。いかんせん、大学入試に落ち続け、どこどこ大学が〜と大学を主体的に批評できる立場ではなくなったのが大きい。主体ではなく、客体として評価される期間が長かったからこそ、大学を主体的に評価できる立場にないのを自覚したのである。評価とはつまり、無知、未経験から起こる行為であり、それなりに経験を積むと、安易に評価を下せなくなる。謙虚となれるのである。
自己が評価を下すうちは己が評価される側であるのを忘れている瞬間である。本来、学生は大学、アカデミアから評価される客体であり、それに適合した時に初めて門戸が開かれるのだ。故、どこどこ大学が〜と学生が主体となり、そこを評価する構造がちゃんちゃらおかしいのである。私がこの構造の違和に気づいたのは、この歳になってからである。何より、大学入試に落ち続け、入試との場面では己が主体に立つことは決してないのを自覚してからだった。入試において、学生は常に謙虚であらねばならない。勉強に専心し、自分は大学から選ばれる側、客体であるのを忘れてはならない。
かつて大学に在学しており、中退した。そして、大学入試をやり直す羽目となった今、大学入試とは何か、その歪な構造とは何か、を哲学する段階にいるのを自覚する。現代文の問題にトライしつつ、現代文とはこうした構造をしているのか、と新たな視点が生まれる度にその学問への面白みが生まれる。そして、その度に入試に落ちてよかったな、と思わされる。そして、英語である。当初、入試に必要だから、との前提で英語にトライしていたけども、英語とは本来、学問ではなく、1つの言語である。それが学問との檻に閉じ込められた瞬間に英語は生きた言語ではなくなってしまったのだ。
ここまでつらつらと書いた。ともかく、受験との現場において、学生は受かる、落ちるの世界にいるのを忘れてはならない。この世界において、学生は主体ではなく、原則客体なのだ。そして、学生が主体となるのは大学を選ぶ瞬間のみであり、それ以外で大学と学生、この主客転倒が起こる事態は原則ありえないのである。選んだ瞬間に学生は大学から選ばれる立場、客体に転落する。だからこそ学生は受験勉強に専心し、その主体から選ばれる努力に励むのである。受験、これは受験生が主体と錯覚してしまう、が、本来、主体は大学なのである。ここを誤ると、大変な事態となる。
改めて、これを書き、気持ちの整理が完了したので、志望校の合格に向けて頑張ってゆきたい。
2025-11-09 17:24