腐爛の美麗:2025年7月

昨日は日記更新をサボった

精神科に行き、救急搬送された旨を主治医に話したら大層心配された。が、何ともない旨を話し、今日の診察も無事終了した。禁煙してから侵入思考に苦しめられたり、悪夢を見る頻度が増えたりと、禁煙はなかなかにハードである。今、実家でとある問題を解いている。数学だ。理統は思考が理系寄りであるのだが、数学がとにかく苦手なのだ。そして、実家でChatGPTを駆使しながら、数学の問題にトライしている。

冊子に掲載された現代文の問題が本当に基礎的すぎた。そうして、なんだか、国語の問題を解くのは呼吸に似ている、と思った。日本語を読み書きする時、私はこれを呼吸だな、と感じていて。日本語を書く行為にさして苦痛を感じない。苦痛どころか、日本語を楽しみながら書いている。何よりも、こう言えばよいのだろうか。日本語の感情が分かるのである。日本語にも喜怒哀楽がある、と。それをキャッチして、「ああ、日本語が喜んでいる」とか「日本語が怒っているな」とか。日本語の感情が読み手である私に伝わるのだ。

日本語の感情をキャッチする。これはつまり、文脈を読み取る行為である。文脈を読み取り、文脈が言わんとする内容を理解する。日本語はしばしばハイコンテクスト文化と呼ばれる。それだけに、文脈を共有――日本語の感情を共有しているとの前提で会話が進められる。日本語の感情を理解していない人間は前提として会話に着いてゆけず、置いてけぼりを食らうのだ。

話を禁煙に戻す。当初は煙草を買いにゆきたくて仕方がなかった。実際に買いにゆくべきか、と迷ってしまった。が、煙草が原因の裂肛が起こったにもかかわらず、それでも煙草を欲しいと考える自分の思考回路にぞっとした。本当に煙草を欲しているのか。そして、立ち止まった。ただ単に吸って吐いてとの動作を恋しがっているだけなのである。それを充たしてくれるのが煙草なだけであり、故に、煙草を求めるのである。本当にくだらないな、と思った。煙草を買うのならば本を買え、と自分を叱責してやりたくなったし、叱責してやりたい。正直、今も煙草が吸いたい。しかし、来週に禁煙外来へ行かねばならないし、吸った場合、医師に正直に「吸ってしまいました」と告白せねばならない。これもあり、煙草を吸えない。我慢あるのみ、である。

煙草なんかで死にたくない。だから禁煙外来に行った。煙草で死ぬ以上にくだらない末路があるのだろうか。

2025-10-01 18:51

虚無感

禁煙を開始してから早くも4日目に突入した。現在虚無感が酷い。虚無感は離脱症状の一種であり、虚無感を和らげるために煙草を買いに行くべきか、と考えてしまう。が、結局煙草を吸っても何の意味もないのだ。これを解っていながらも煙草を吸おうとするのは一種の愚行なのだ。ニコチネルによるニコチンへの耐性がついたのだろうか。もう煙草を吸うしかないのか。否、死ぬしかないのか、とさえ考えてしまう。本当は死ぬ必要なんかないのだが、虚無感が酷すぎるのだ。

「いちご白書」をもう一度を聴いている。ゆったりとしたゆとりのあるメロディが耳に優しい。なんだか、こうした曲を聴いていると、紫煙が恋しくなる。そして、次に流れてきた曲はあずさ二号である。あの時代の曲は心をしんみりとさせるメロディーばかりである。殊に離脱症状がきつい時に聴くと、これらのメロディーが心により沁み、辛くさえなる。裂肛をきっかけとして喫煙をやめた。しかし、なぜこうも禁煙がきついのか、理解不能である。ここまできついのならば、禁煙を止めてしまおうか、とさえ思う。今、あずさ二号の歌詞が妙に胸を打ち、泣きたくなった。

本を読もうにもやる気が起こらず、基礎能力検査の勉強をしようにもやる気が全く起こらない。全てのやる気を削がれ、脳内物質の調整が上手くゆかないもどかしさ。それでいて、脳はいやに冴え渡り、文章を普段よりも上手く組み立てられるとの矛盾。この相違は一体なんなのか、ととにかく苦しい。もう、全てがどうでもいいから、コンビニへ煙草を買いにゆこうか、と考えてしまう。普段は論理的に文章を書ける私も今回ばかりは感情の奔流に任せるがままにしか文章を書けない。それほどまでに禁煙がきつく、即時的にニコチンを摂取できる煙草を求めてしまうのだ。が、煙草を吸っても得することなんか、何もない。これを頭では解っているのだが、我慢がきつい。

禁煙し、この山を乗り越えた先にあるのは煙草から卒業した景色なのだろうな、と思った。煙草を卒業した先にある景色を見てみたい。煙草なんかで死にたくない。だからこそ禁煙を頑張りたいし、ニコチネルで凌ぎたい。離脱症状がきついだけなのを理会している。そして、禁煙してみて、無趣味な私には日本語しか残されていないのを痛感した。私から日本語を取り上げたら本当に何も残らないのだと自嘲にも似た笑いが込み上げた。そして、日本語を書き続けるために禁煙を継続したい、と本気で思った。しかし、禁煙すると何もできなくなる。やる気がなくなる。離脱症状が、きつい。

今回の日記は随分と感情的な日記となってしまった。けども、このような日記でも構わないのかもしれない。当面はこうした日記ばかりを書いてしまうかもしれない。

2025-10-02 21:08

とあるお笑い芸人

今更ながら8.6秒バズーカーのラッスンゴレライとの日本語のリズムにハマった。はまやねんと田中シングルの滑舌が良すぎるのだ。また、ラッスンゴレライとのリズムの反復が耳に心地よいのである。ChatGPTにラッスンゴレライの反復がなぜ心地よいのかを聞いた。そうしたら、ラッスンゴレライには以下の構造があるらしい。

• 2拍×2のリズムで区切られるから、耳が自然に「韻律」を感じてしまう。 • 「ラッスン」と「ゴレライ」で母音が a と o/e/ai に分かれてて、繰り返すことで強烈な印象を残す。

また、ちょっとちょっと待っておにーさんの繰り返しが心地良い理由もChatGPTがきちんと説明してくれた。以下にそれを引用する。

• 「ちょっと待って」が 3回繰り返されるように錯覚する(ちょっと+ちょっと+待って)。 • 実際は「ちょっと待って」を2回+「おにーさん」で、4拍の構造に収まる。 → つまり「ズレそうでズレない」構造が、聴覚的にめっちゃ気持ちいい。 これは音韻論的にいうと「反復+拍リズム+語の切れ目を利用したシンコペーション」やね。 ただのフレーズ遊びやのに、脳が「言語のリズムパターン」として快感を覚える。

こうした疑問にも真剣に答えてくれるChatGPTには感謝しかない。何より、日本語の反復がなぜ心地よいのかを分析する時は音韻論の観点からそれを分析するとよい。

8.6秒バズーカーは私が学生時代にブレイクしたお笑い芸人である。当時、友人が彼らのことを面白いお笑い芸人だと私に語った。そして、当時の私は「へえ」程度のリアクションでそれを受けし流したのだが、数十年の時を経て、彼らのネタを聞いた。ラッスンゴレライを聞きながら、日本語の音韻を無意識に理解したネタを天才的だ、と思った。そして、遅ばせながらラッスンゴレライにハマってしまい、ChatGPTにラッスンゴレライについてを尋ね、音韻論の観点からなぜこの反復が心地よいのかを分析した。理統は音韻論に詳しくないのだが、こうしたネタと偶然にも出逢った時、お笑いとは音韻によって面白さの可否が決まるのかもしれない、と考えさせられる。

デマが原因で芸能界から姿を消したコンビであるが、日本語の音韻をお笑いに昇華した芸人として記録されるコンビであろう。

2025-10-04 20:56

毛染めして

もう少しで入試である。インナーカラーの茶髪を黒染めしないとまずいな、と思い、夜、母親に手伝ってもらい、早急に黒染めした。

これまでプラットフォームで小説を書いてきた。が、他者と競合しながら小説を書くのが苦しくて、プラットフォームで小説を書くのを二度とやめよう、と考えた。小説を書くのはホームページもしくは、Kindleで公開するときだけで構わない、と考えた。小説は本来、楽しく書いてこそなのに。私にとっての小説、これがいつからか苦痛でしかない、こうした性質に変貌していた。

日本語を極めれば極めるほど、大衆に受けるとの性質から逸れてゆく。大衆に受ける文章を書くのが難しくなり、プラットフォームで書くのも難しくなる。そして、小説そのものに嫌気が差し、筆を折りたくなる。「書くのが嫌だ」と考え始めて、何も、書けなくなる。私自身、競合との環境で書くのに本気で向いていない、と思った。もう、他者と競いながら書くのはやめよう、と本気で考えた。

日本語が好きだ、大好きだ。けども、比較される言語としての性質を帯びたとき、自由に書けなくなる。私の日本語には価値がないのか、と考えてしまい、何も書けなくなる。弱音を吐いた。つまり、書きたかったのは、プラットフォームで小説を二度と書きたくない、とのことだった。「猛毒遊戯」を書くにせよ、始めからホームページもしくは、Kindleのみで書けばよかったのだ。

大学入試が目前に迫っている。大学に戻るチャンスが目前に迫っているのだな、というのを意識して、不思議な気持ちになっている。この数年間、戻るまでに何をしてきたのだろうか。ふらふらとしつつ、有意義な行動をしていたかもしれないし、有意義な行動をしていなかったかもしれない。振り返れと言われても、特には解らない。

よかったのだろうか、生きてきて、と自問する。が、私が生きなければ、もしかすると救えない命もあるかもしれない。こう思うと、この命を安易に投げ出せない。生きてほしい、と望み、生きられなかったたくさんの人々。彼らが生きていたら今、世界はどんな彩りを持っていたのだろうか。彼らが生きて、描写する世界を、見たかった。叶わぬ願いを胸に抱きながら、1人、しんみりとしている。

活動拠点をKindleとホームページに移行した。「猛毒遊戯」は現在、メモ帳アプリにバックアップを取った。そして、推敲を終えたのち、PDFにまとめてからKindleで公開する予定だ。

2025-10-09 20:12

現役時代

現役時代、模試で校内1位の成績を収め、その偏差値が60を超えていた。確か、現代文だったろうか。当時、それを受け、その受験者が10万人ほどいたのを記憶している。模試に向けての対策を特には行わなかったのだが、偏差値がそれでも60を上回った。そして、私と志望校の偏差値には大きな乖離があるのだが、それでも志望校を受験した。英語さえできれば上位校を狙えるのであろう。しかし、私は英語が本当に苦手なのである。故に、上位校を狙うのはかなりリスキーなのだ。

昔から国語が得意だった。国語だけが得意だったと言ってもよい。勉強せずとも100点を取れる。自分がなぜ国語を得意としているのか、理由がはっきりとしなかった。が、国語をすらすらと解ける。国語と友達だったと言ってもよい。片や算数がとにかく苦手であり、苦労した。

そして、今。入試を終え、一息ついた。それを終えた直後、落ちたらどうしようとの不安から涙が込み上げ、号泣してしまった。今世は大学と縁がないのかもしれないな、と悔しくなって。英語さえできれば、日本語――モノリンガルな自分が悔しくて。モノリンガルは入試に不利だと泣きたくなった。なんだか、今世の自分は大学に縁がないのか、今世はもうダメなら、いい加減に終わらせようか、とも考えてしまって。苦しくなってしまった。禁煙していたのに、禁煙をやめてしまって。喫煙を解禁してしまった。だが、喫煙してから気持ちが落ち着いて。しばらくは煙草を吸おうか、とも考えた。

大学に行き、研究者になりたい、と考えている。それだけに、大学へ行かねば道が開かない。現役時代、研究者との職種を知っていれば中途退学しなかったと今、悔しさでいっぱいである。

悔しさをつらつらと書いても仕方あるまい。入試を終えたとの現実を受け入れ、「猛毒遊戯」を推敲し、Kindleで公表できる状態にし、朗読の練習に励むこと。就労先を見つけるなど、未来に向けての努力を怠ってはならない。

2025-10-11 18:55

謙虚でいるには

理統さんは謙虚だ、と思われるかもしれない。が、謙虚なのは自信のなさの裏返しなのである。私には別にこれといって誇れるものが何もない。何か1つでも誇れるものがあったならば途端に驕っていたのかもしれない。が、誇れるものが何もないからこそ常に謙虚でいられるのである。自信のなさは謙虚さに繋がる。

例えば、私に絶対的な学歴があったならば、それをアイデンティティとして私は自分に自信を持っていたかもしれない。だが、私は事実、大学を中退させられている。拠り所とすべきアイデンティティを失っている状態なのだ。こうした状態で自らをどう誇れ、というのか。誇るのに無理があろう。私が謙虚と言われる所以には裏を返せば、自信のなさが根底にあるのだ。国語がどんなにできようと、それを担保してくれるものがなければ意味がない。それはただの数値でしかなくなってしまうのだ。偏差値が60もあろうと、今、その偏差値が私に何をしてくれているというのか。結局、その偏差値を活かせる場所がなければ、それは何の意味もないのである。

私が書きたかったのは、自分に自信がない、とのことであった。私はこの通り、自分に自信がない。自分に自信がないからこそ裏を返せば謙虚でいられるのだ。謙虚でいられる、自信を持ったとき、人は驕ってしまう恐れがある。自信とは諸刃の剣である。持ちすぎると己の身を滅ぼす性質となる。だから、持ちすぎないのがバランスとしてはちょうどいいのだ。今日、マイナスな内容しか書けそうにない。プラスな内容を書くのはしばらく難しいであろう。

2025-10-11 23:35

終わり

来年に死のうと考えていた。こんな人生が一体いつまで続くのか、と考えて。先が何も見えない。これに絶望して、全てに絶望して、来年に人生を終わらせようと考えた。人生を終わらせ、父親の元へゆこうと考えた。だが、まだ終わらせられない理由がある。だから、来年も生きようと考えた。

終わらせるにはまだ早い、と言われるかもしれないが、もう20代の後半まで生きてしまった。終わらせるのに十分な年齢まで生きてしまったのではなかろうか、と考える。だが、まだ読んでいない本がたくさんあるし、九鬼周造の全集も読んでいない。やり遂げていないタスクもたくさんある。だから、死ねない。当面は大丈夫だ。

今月、地元の山へ行きたい。陶器山との小さな山だ。そこに天野街道との街道がある。そこを歩き、自然を堪能したい。自然を堪能しながら、生きていてよかった、と思いたい。ところで、振り返れば、高野悦子は20歳で命を絶ったのだな、と思う。たくさんの日記を書き残し、命を絶った。私はこのホームページにたくさんの文章をこれからも書くけれども、それでも命を絶ちたくない。生きたい。なので、安心してほしい。

きっと、ストレスの要因が積み重なり、今、心が疲弊しているのだ。しばらくすればまたやってゆけるであろう。

2025-10-12 22:15

手応え

最近、文章をあまり書いていなかった。ホームページに文章を書く、との作業を怠り、「猛毒遊戯」の推敲も怠っていた。一度楽を覚えると人間、簡単に楽な方へと流されてしまう。喫煙していた頃、自分を律することがきちんとできていたのに、禁煙してからすっかり自堕落な生活に陥ってしまった。

これならば、喫煙している方がよかったかもしれないな、とさえ思う。が、喫煙していた期間があまりにも長かったせいで今、何も分からなくなっているのだ。こうなると私はすぐコンビニに行き、煙草を購ってしまう。悪い癖が即座に、発動する。本当は今すぐにでも煙草を吸いたいし、数キロも太ったのが禁煙の影響であるのならば、逆に禁煙している今が恐ろしくさえある。

昼、家族と焼き肉を食べに行った。なんだか、このまま太り続けるのか、と思うと煙草が恋しくなってしまい、禁煙なんてできないな、と挫折しかけた。苦しいのだ、ともかく。楽して痩せたいわけではない。ただ、禁煙してからいきなり5kg以上も太り始めた自分の現状に耐えられない、ただこれだけなのだ。

健康的になるのが自分にとり、ここまで苦しみと表裏一体だとは思わなかった。ならば、不健康なままでよかった、とさえ考えてしまう。体が健康的になる度に体重との数値が増加してゆき、それにたまらないストレスを感じてしまう。もう、いいかな、喫煙しても。

2025-10-20 18:14

「民事なので」は最高の逃げ口上

今朝、起き抜けに警察に電話をかけた。用件はXのアカウントが10年以上にも亘り乗っ取られ続けている、つまり、不正アクセス禁止法についてであった。まず、不正アクセス禁止法は民事訴訟ではなく、刑事罰事件である。これを念頭に置いた上で記事をお読みいただきたい。不正アクセス禁止法は刑事罰事件、ゆえに警察に電話をせねばならないと考え、起き抜けに最寄りの警察署に電話した。が、対応した警察官はその知識が何もなかったのだろう。私の話に相槌を打ち、「いいですか?」と問うた。私が「はあ」と答えると、「それでは」と電話を切った。いや、ちょっと待ってくれ、と突っ込む間もなく電話が切られた。私は一体何のために電話をかけたのか。それがただの徒労に終わり、怒りを通り越して、もはや呆れを感じた。

その後、#9110との警察相談専用電話にコール。電話をかけ、応対した警官に不正アクセス禁止法について話した。が、10年以上が経過しているんですよね、と一言。何より、不正アクセス禁止法の壁となる時効の3年以上を経過しているため、起訴ができない、との状況が発生しているのである。そして、決定打となったのが、この件は民事でしょうから、である。なぜに警察官が刑事罰事件もしくは、民事訴訟かを断定できるのか。そして、何より、刑事罰事件か民事訴訟かを断定できるのは弁護士、検察官の両者であり、警察官ではない。つまり、この警察官は、時効が成立しているため、時効が成立した件に関しては刑事罰事件ではなく、ただの民事ですよ、との理屈で私を言いくるめようとしたのだろう。だが、こうした論理をもしも展開したのであれば、刑事罰事件が民事訴訟へと移行する事態は基本起こり得ないし、原則有り得ない。刑事罰事件は原則刑事罰事件のままであり、時効が成立したからといって民事訴訟に切り替わる、との事態は起こらない。

これを1.2.3との順に組み立てるとこうなる。1.時効が成立している。2.よって「刑事罰事件としては処理できない」。3.ゆえに、始めから民事訴訟である。否、事件としての論理が飛躍しているのがすぐにお分かりいただけるのではなかろうか。不正アクセス禁止法だからこそ軽く見える。しかし、これが仮に殺人罪ならば、いかに飛躍した、おかしな論理であるかをすぐにご理解いただけるであろう。また、警察官は正義の番人、と持て囃されがちであるが、彼らは法的証拠がない限り動けない組織である。私自身、警察官に何度も頼ってきたが、警察官が動いてくれたケースは約1パーセントと言ってもよい。彼らを動かすにあたってはともかく証拠が必要とされる。ならば、どうすべきか。探偵や弁護士などをまずは雇う。それから警察との組織を動かすのが理に適っているのである。いきなり警察にぶつかっても警察官は動いてくれない。ゆえ、証拠を集め、探偵や弁護士を雇うのが警察との組織を動かす上では何よりも重要なのである。そうでもせねば、警察官お得意の「民事ですから」との逃げ口上であしらわれてしまう。論より証拠である。警察官に動いてもらいたければ、ともかく論より証拠なのである。

また、上記の警察官が犯した誤謬として、不正アクセス禁止法が刑事罰事件であるにもかかわらず、逃げ口上としての民事訴訟、で話をあしらってしまった点にある。警察官の現実をご理解いただけたかと思う。改めて、不正アクセス禁止法は刑事罰事件である。それが時効成立とともに民事訴訟に切り替わるとの事態は原則起こらない。刑事罰事件は刑事罰事件のままである。ここを理解しないと、警察官の逃げ口上に騙され、泣き寝入りするだけの結末となる。

2025-10-22 17:18

理統からしばらく離れてみて

自分が言語、日本語で世界といかに戦闘していたか、との事実を突きつけられた。日本語を遊戯するメンタルを忘れていた。日本語を武器として扱い、論理的に扱う点にばかり重きを置いていた。日本語を遊戯する日々から距離を置いて以後、日本語を構築することばかり考えていたように思う。息が詰まるのは当然なのだ。

理統との剣をひとまず下ろした今、心が軽い。言語学にまた取り組んでゆこう、との前向きな気持ちが戻ってきた。今までの私は、日本語に対する気持ちがあまりに直線的すぎたのである。そして、論理に傾きすぎると読み手の余白を奪うのもきちんと理解せねばならない。

改めて、ホームページにまた文章を書いてゆこう、との気が起こった。今日はこれくらいに留めておく。

2025-10-31 22:02