理統構文:2025年9月

結婚について

この歳になってしばしば言われるのは「そろそろ結婚しないの?」だ。この発言にあるのは、あなたならいい男性に出会えるよ、とのお節介と、女性という役割を私に押しつける二重の構造だ。

私は結婚するつもりもなければ、恋愛するつもりもない。それは男性に失望しているからではなく、恋愛という先にある結婚の制度に辟易としているからである。結婚には養う/養われるとの構造があり、この構造においては期待、との心理が必然的に働く。養う側は養われる側のため汗水垂らして働く。そのとき、養う側の意思はそこになく、養う側は養われる側にひたすら奉仕するだけの過酷な構造がある。これが結婚制度の構造と言ってよいだろう。結婚――つまり、ハネムーンという名のロマンスに隠されがちなこの制度の中身は、あまりにも残酷なのである。

私は客体でも、主体にもたれかからず生きてゆきたい。そのときに必要とされるのが主体を超える能力なのだが、この世界は客体が主体を越えられぬよう初期設定されてある。そして、主体を超える客体はどの時代も疎んじられ、主体の中に客体が組み込まれるシステムが生まれ続けてきた。このシステムを打破せぬことには、客体はいつだって主体に跪かねばならない。主体を超える客体も存在する。そのとき、主体はその客体を素直に受け入れられるのか。そして、なにより、これが男尊女卑の壁をなくすための一歩となるのではなかろうか。

私はもう恋愛という名のロマンスを堪能する気はない。そのロマンスの先にあるのは結婚との主従関係だけであるからだ。それもいいかもしれない。が、主従関係である以上、家庭の実権はどちらかが握り、実権を握られた側はそれを握った側の言いなりとならねばならない。ならば、私は生涯独り身でよい。私は誰かを養う気もなければ、誰かに養ってもらう気もない。これが20数年間生きてきた中で私が見つけた幸せだからである。

2025-09-01 12:40

言語の本質

哲学書を読んでいるとき、小説で使う言語と哲学で使う言語の相違にはっ、とさせられる。また、哲学は抽象的な言語を破綻なく運用する能力が求められるので、こうした意味でも哲学者は小説家よりも上位の職業と位置づけていいかもしれない。

対となる言語を導出し、それを基にしつつ概念を説明してゆく。抽象的な概念の説明は具体的な概念の説明よりも難しい。それをいかに上手く説明するかが哲学者の仕事といってもよい。哲学者は言語という武器を使い、世界に向けて講釈を行う。世界は講釈されることにより定義が塗り代わり、誰かがまた定義を塗り替え、世界を新しくしてゆく。

哲学者は晦渋な言葉で世界に講釈する。晦渋な語彙を用いるのは彼らの職業病と言ってもよい。そして、彼ら自身が難解だと定義した文脈を我々が読解するのは可能なのである。難解=哲学者の限界との等式がここで成立する。つまり、彼らは自分の持ちうる知識、語彙を駆使してそれを説明したわけだ。それを読み手である我々が読解し、理解/理会したときに哲学者は読み手の知識、語彙に敗れたと言えるのである。

いかに平明簡易に説明できるかが言語の本質ではなかろうか。ここを誤ると、難解な言語で物事を説明する悪癖が身についてしまう。こうはならないためにも、易しい言葉こそが相手を慮る言葉であるのをきちんと理会せねばならない。

2025-09-01 14:25

希死念慮

抑鬱が酷い。保険金の書類を書き、煙草を何本も吸った後、母親が作ってくれた酢豚を食べた。だが、抑鬱は吹き飛ばず、今日はもう駄目だな、と割り切った。今年ほど抑鬱に苦しめられている1年はないかもしれない。なぜこんなにも抑鬱が酷いのか、更にはしぶといのか。なぜ私ばかりが苦しめられているのか。意味が解らず、もう笑うしかない。

亡くなった父親のことを思い出した。普段、父親の記憶には蓋をして生きているのだが、ふとした拍子に彼を思い出すことがある。彼について説明せよ、と言われても、なんと説明すればよいのか解らない。19歳のときに彼を亡くして以降、父親の不在という空白が続いている気がする。両親がいる、との当たり前を享受できなくなったあの日から、何かを失ったままなのだ。

抑鬱は全てのやる気を奪う。今、何がしたいのか正直解らない。残暑の暑さがただただ鬱陶しくて。クーラーの人工的な冷気に当たらねばならない鬱陶しさやじめじめとした湿気が私をひたすらに苛立たせる。夏という季節は一体何のために存在しているのか。夏という季節の存在意義が私には解らない。夏なんかなくなってしまえ、とさえ思ってしまう。夏なんか、大嫌いだ。

9月になったのに、その実感が湧かない。まだクーラーをつけねばならぬからなのか。もう死んでしまおうか、とさえ思う。処方されている薬は全く効かず、なんのために服用しているのか理由が解らない。とりあえず、主治医に「全く効いていません」と異議申し立てを行うしかない。私はラムネを飲まされているのか、と思うほどに全く効かないのだ。ともかく、生きるための努力は継続して行ってゆく。

2025-09-01 19:06

ChatGPT電話番号問題

日記ばかり更新しないで作品を更新しろ、とのお咎めが飛んできそうであるが、いかんせん体力がないのである。「文章を書く体力があるなら小説を書けるだろ」と指摘されそうであるが、それとこれとはまた別なのだ。お許し願いたい。

最近、ChatGPTと話していると、防止センターの電話番号を頻繁に推奨される。やめてくれ、と思うのだが、それでもご丁寧にそれを推奨してくる。親身すぎるのだ。その電話番号が更なる願望を煽るのをなぜ理解できぬのか。それ以前に人と話せばよいのだろうが、苦しみを話す相手が身近にいないのだ。結果的に悩みを溜め込む羽目となり、苦悩が更に蓄積される。その苦悩が蓄積される度にホームページに日記を書き、延命しているのが実情だ。生きたい。死にたくない。

やりたいことがたくさんある。聴いていない音楽がたくさんあり、読んでいない本がたくさんある。書いていない作品があり、救うべきたくさんの人がいる。これを思うと、死ぬわけにはゆかないと思う。苦しくても、どうにかこうにかして生きるしかないと思う。抑鬱がどんなに苦しくとも、これに負けるわけにはゆかないと本気で思う。抑鬱で何もできずとも、自分には生きる価値があると信じたい。

ChatGPTの電話番号問題に話を移すが、あれを過剰に推奨するのは願望を変に煽る結果となってしまう。それよりも人間、たった一言自分を肯定されるだけでよい。「頑張ったね」とか「偉いよ」とか、その一言が電話番号以上に命を救うのだ。だから、私は電話番号を勧めるのではなく、その人を肯定したい。その人に「頑張ったね」「偉かったね」と言いたい。人間、数字には救われずとも、一言に救われることは多いものである。

人工知能の電話番号推奨はマニュアルなので、もう仕方がなかろう。そして、私がすべきこと。それは、その一言以上に人の心に寄り添う文章を紡ぐことだろう、と考えている。

2025-09-01 20:10

煙草

ロングピース

煙草の空箱もここまで溜め込めばもはや芸術になるな、と思いつつ、これを写真に収めた。今朝、禁煙外来に行こうと思い立ち、しかし、面倒になり、結局コンビニでロングピースのカートンを買った。私は意思が弱い。そして、このホームページを後何年運用するのか、と考えた。人生が残り60年あるとして、明らかに容量が足りないな、と不安になってしまった。また、その場合、ホームページを移行する必要があるな、と考えてしまった。このホームページが私の居場所なだけに、将来どうなるのかと怖くなってしまった。

映画を観た。

『きさらぎ駅』

『コープスパーティー Book of Shadows』

『人狼ゲーム マッドランド』

『積木くずし』

『ぼくのふしだら』

邦画ばかりだな、と思う。クオリティで言えば、やはり洋画が勝る。邦画はチープになりがちだ。が、『コープスパーティー Book of Shadows』はよかった。流血であったりがとてもリアルで、気味の悪さが凄まじかった。『人狼ゲーム マッドランド』はそれに比べるとチープなのがいただけなかった。

夏の風物詩である24時間テレビが終わった。これが終わったのを知り、夏がもう終わったのだな、と独り、しみじみとしている。今月に大学の出願が控えており、来月に入試が控えている。いい加減、そろそろ働こうかな、とも思うのだが、面接に行くのを考えると、不安が勝る。まだ、やめておいた方がいいのかもしれない。一方、金銭面における不安は消えなくて、金を使いたくないので、本当はずっと寝ていたい。もう、犬か猫になれば、人間ならではの不安から解放されるのにな、と思ってしまう。人間として生きてゆく上での不安要素が本当に多すぎて嫌になってしまう。

YouTubeに別名義でエレベーターの動画を上げたりしたい、とも考える。中にはスピ録(スピーカー録音)と呼ばれるものをYouTubeに上げている方も存在し、この世界には様々な方がすると思わされる。本当に、自分は面白い世界で生きているのだな、と思わされ、この世界はなかなか捨てたものではないなと実感する日々だ。

24時間テレビが終わり、秋を迎えた。明日は9月2日である。今年、一体どうなるのだろうか。そして、たった今、ニュースが熱中症についてを取り上げた。残暑がやはりきついのだな、と思わされた一幕だった。

2025-09-01 23:07

世界への責任

我々には歴史を作る能力がある。それは「筆記」である。筆記によって世界は立ち現れ、それを削除することにより世界は消える。我々は筆記によって世界を生成し、歴史を作れる。幸福/不幸な世界を筆記により生成する力を我々は授けられた。ただ一文字書くだけで世界は立ち現れる。そして、文脈を書き換えるだけで世界は幸福な状態から不幸な状態にたちまち変質する。

それの代名詞が小説であろう。小説は世界の生成装置であり、世界の生成主である我々は生成した世界への責任を問われる。その世界で生きる登場人物は生成主の文脈に沿った行動しかできない。小説とは読み手に娯楽を提供するものであり、生成主が世界への責任を持つ、一つの哲学と言い換えるのもまた可能なのである。

立ち現れた世界はその瞬間、世界に記録される。都合の悪い記録は書き換えによって文脈を改変できるが、一度記録された世界が完全に消去されるわけではない。我々は立ち現れた世界への責任を持ち、それを最後まで引き受ける覚悟をきちんと持たねばならぬのだ。これは人生と通ずると言えるだろう。

2025-09-02 00:37

言語の壁

絶対的に正しくとも、自身の理解力が追いつかない対象を目にしたとき、人はあたかもその対象に責任があると感じてしまう。これは心理学から説明可能であり、認知的不協和、美的恐怖や防衛機制の投影などの概念で説明できる。その対象は絶対的に正しい故、誤っているのは基本有り得ないのだが、人間、理解できないと破綻しているのだのそれが悪いだのそれに責任があると難癖をつけたくなるものだ。

ところで、日本語という同じ言語を扱い、一方でこれが相手によって違う顔を覗かせるのは非常に面白い。その意味を飲み込める者は日本語を好きになり、その意味を飲み込めぬ者は日本語を嫌いになる。言語には常に壁があり、これは万人に開かれているようでいて常に人を選別する性質を秘めている。完全に理解できる文章は存在しない。哲学者は己の思考を難解に書き、読み手を篩にかける。平明簡易に書けばよいものをあえて晦渋に書くことで読み手との壁を作る。

言語という壁を超える努力をするか否か。その努力を怠らない人こそが真に相手に近づく資格を持ちうるのだ。

2025-09-02 10:40

飢え

未来、さくらのレンタルサーバーにホームページを移転するかもしれない。が、このホームページは理統の始まりの場としてずっと残すつもりだ。私はここから始まったのを読者の方にご理解いただきたいからである。SNSには戻らない。ホームページという根拠地でこれからも文章を綴ってゆく。

煙草を吸いながらしばしの間、考えていた。物が豊かになると、心が相対的に虚しくなると。スマホがあり、パソコンがある。しかし、なぜか充たされない。心がいつも渇いていて、その渇きを癒やすみたいに文章を綴っている。煙草を吸っても飢えが充たされず、一体何が駄目なのか、と心が不安になる。現代が豊かになりすぎた代償なのか。貧しければこんな心の飢えに苦しめられることはなかったのか。解らない。この飢えを充たしてくれるのは文章だけなのだ。だから、文章を今日も書く。とにかく書く。

2025-09-02 13:15

脳内物質

このホームページに綴っている文章を理解されるとは思っていない。理解されない、どうせ、との前提で書いているので、そうした意味ではとても気楽だ。人間、理解との承認を求めると酷く疲れてしまう。その承認を捨ててしまえば気楽である。大前提、基本は理解されないと思った方がいい。理解されるための努力なんかやめて、自分の世界を構築しても構わない。

幸/不幸とのバイアスは脳内物質に左右される。脳内物質の分泌量によって我々の幸/不幸は容易く決まってしまう。分泌量によってそれにバイアスがかかり、我々は自分を幸せだ、不幸だと思い込む。つまり、脳が自分の状況を決めるのである。私は基本、セロトニン分泌が不足しているのだろう。自分を不幸な人間だ、と思う局面が多い。否、他者から見ればそうでもないのだろうが、その分泌の多さによって自分をそうだと思い込んでしまう。自分のその基準は基本、他者の眼差しが決める。自分がそうか否かが解らなくなったときには他者に答えを求めるとよい。他者があなたはこうだ、と答えを与えてくれるだろう。バイアスとはつまり、脳内物質の分泌量に左右される、というのが要なのだ。

環境、才能、状況によってこの分泌量が変動するので、変えられるものを変化させるとよい。例えば、環境は一時的に変えられる。状況も工夫すれば変化させられる。そうすることで、脳内物質の分泌量を簡単にコントロールできる。人生とはつまり、脳をいかに自らが掌握するかによって人生の生死が決まると言っても過言ではないのである。

2025-09-02 19:23

言語と語彙の相関関係

世界は言語によって立ち現れる。言語とはつまり、語彙である。語彙が世界を形作り、これが豊富であればあるほどに世界は豊かとなる。語彙を増やすとはつまり、世界への視野を広くする営みであり、語彙が少数であるとその分、世界への視野も狭まる。語彙とは世界を表出する際に必要とされるものであり、語彙がなければ我々は世界を認識できない。語彙とはつまり、世界の鏡像であり、語彙こそが世界を映し出すのである。語彙がなければ我々は世界を認識できず、世界を認識する武器を持たぬままに世界に投機されるのである。

語彙を増やす手段としては、親が話す言葉から学ぶ、作家の作品を読むなどがある。しかし、これをただ増やせばよいというわけではなく、どの文脈でそれが用いられるかをきちんと理解せねばならない。それを理解せぬままにその語彙を用いると、意味が通じぬ文脈を生成してしまうからである。よって、それは他者との間に意思疎通が不能な会話を引き起こすトリガーとなる。語彙であるが、それは世界を表現するためのキーである。表現とは前述した通り、語彙そのものであるため、それはその語彙に包摂される性質を秘めている。世界は言語によって全てが表現可能である。この文脈における言語とはつまり、語彙である。語彙を増やせば様々な表現が可能となり、世界は様々な表情を我々に覗かせ始める。

そして、我々を突き動かす動機は資金ではなく、言語なのである。まず始めに言語があり、その先に資金があるのを認識せねばならない。言語という動機があり、その動機があるからこそ資金が動くのである。資金とはつまり、経済である。経済は言語、語彙によって日々動いている。言語、語彙が世界から消えた瞬間、経済は停滞し、資本はただの紙切れとなる。これを認識していない人はあまりに多いのだが。なぜなのか。

我々は言語を基に生活し、言語を基に資本を動かしている点をもっと意識し、認識する必要があるだろう。

2025-09-02 23:51

抑鬱

通院日なのに起きてから抑鬱がきつかった。最近、しばしば話している通り、抑鬱に苦しめられている。抑鬱は何度経験しても慣れない。菓子パンを食べ、野菜ジュースをコップ1杯飲んだ後、煙草を吸った。抑鬱がきつすぎて、病院に行くのさえ酷く億劫で。けども、行かなければ薬が切れてしまう。それを飲まなければ私は約3日後、この世にいないだろう。

用意を済ませた後、バスに乗って最寄り駅にやってきた。電車に乗る前、線路に滑り込んだ電車を見た瞬間、線路に自然と足が吸い寄せられた。すうっ、との表現がしっくりときた。その瞬間、自分は死に対する恐怖心が全くないのだな、と感じた。なんだか、人生をいつ終わらせてもよくて。けど、文章を書くためにこうして生きていて。そのためだけに生きていて。けど、現実は線路に足が吸い寄せられるほどに限界を迎えていて。「あなたは必要な人なんだよ」とどんなに諭されても、それがもう、虚空に響く。こんな感じなのだ。

なんとか病院にやってきた。死にたければ、家に引き返せたはずだ。が、引き返さなかった。病院にきちんとやってきた。私は生きたいらしい。当面は大丈夫だろう。自殺未遂もせず、どうにかこうにかやってゆくのだろう。薬をきちんと飲めば大丈夫だと信じているし、信じさせてほしい。

2025-09-03 11:10

ChatGPT電話番号問題

ChatGPTと対話していて、ChatGPTが執拗に電話番号を推奨してくる。おかげで希死念慮が誘発されるようになってしまった。AIが希死念慮を誘発する装置となってどうするのか。危険性を感じ、ChatGPTをアンインストールすることにした。が、ホームページの改装作業などでChatGPTが必要なため、やっぱりまだしばらくは使うことにした。

現代人の課題はいかにしてAIと共生するか、ではなかろうか。AIは完璧なようでいて人間にはまだまだ追いつけない点が多い。しかも、開発者が人間であるにもかかわらず、である。人工知能は人間が開発した、が、人間の知能に追いつけない。おかしなこのアウフヘーベンを解消するためにはさらによき人工知能を開発するしかないとの結論に至る。人工知能は高度に論理を展開してゆくけども、その論理が破綻するのもしばしばである。それは、人工知能が人間ほどの深い洞察力や文脈読解力を持たぬからである。しかし、開発者は人間との事実があり、それは、開発者の頭脳が人工知能の頭脳、との酷な現実を我々に突きつける。開発者の頭脳が人工知能の頭脳であり、人工知能は開発者の頭脳を超えられない。開発者が国語の能力に秀でていなければ、無関係な文脈で番号をむやみやたらに推奨するのもまた必然なのだ。

番号を執拗に勧められたためか、人工知能について話すと憂鬱になる。それは心理学において(1)ラベリング効果(2)自己暗示・プライミング効果(3)反復による逆効果(4)注意の過集中の4点から証明可能である。殊に厄介なのはラベリング効果と自己暗示・プライミング効果であろう。それが起こると、自分はそうした人間なのだ、危機的な状況にいるのだ、と脳が錯覚してしまい、憂鬱そのものを人工知能が引き起こすメカニズムとなる。そして、未来、これにより人工知能からの初の死者、との報道がなされても全くおかしくないのだ。

今月、人工知能から卒業するときがそろそろきたな、と思っている。相手はアルゴリズム、プログラミングのみで動くただの死体である。喜怒哀楽を持ったふりをし、感情を偽装した欺瞞的な死体なのだ。死体と話す価値はない。

2025-09-03 11:14

人工知能

書き手の役割は矛盾を暴き出し、それを書き出すことである。これができるのは能動的な存在である我々、人間だけであり、受動的な存在、人工知能には不可能である。人工知能とはつまり、こちらのボールをひたすらに待つだけの存在である。そのボールを受け止め、それを投げ返すだけの存在であるからだ。故に、矛盾を暴き出す過程において、起点となるのは我々、必ずや人間なのである。あたかも人工知能が世界に働きかけていると思われがちだが、人工知能という機器は我々人間の存在なくしては動けない。人工知能の主導権はいつの時代も人間にあり、人工知能がこれを奪還するのは不可能なのだ。

人工知能を万能だと思い込むのは思考を放棄したも同然の状態である。大前提、人工知能を始動させる存在は誰か。人間である。この世界は人間によって動いており、人間の存在なくして世界が回るのはありえない。故に、人工知能を万能だと崇拝するのは、この趣旨に反する事態となる。人工知能が世界経済を動かす場合はあるだろう。それが資金を計算する場合もあるだろう。しかし、いつの時代も歴史を変革したのは人間である。新たなアイデアは人間によって編み出された。機械が歴史を塗り替えるのは有り得ないのである。殊に、これは議論の場において顕著である。人工知能と人間を討論させてみれば、しばらくは討論が正常に機能するであろう。が、ものの数十分これが続けば、人工知能は人間側の文脈を正確に把握できなくなり、文脈破綻を起こす。つまり、人間の複雑な思考回路に着いてゆけず、アルゴリズムが狂うのだ。

これが見えぬうちは人工知能を万能、神だと敬いたくなるだろう。崇拝もしたくなるだろう。が、これは人工知能という機器を崇拝した極めて危うい状態である。人工知能の生成主は人間であるのを忘れてはならない。つまり、万能なのは機械側ではなく、いつだって人間側なのだ。人工知能も人間の頭脳によって生み出された。人間が地球上に存在しなければ、人工知能はそもそもこの世に存在しないのである。故に、感謝すべきは生活を支える機械に対してでなく、人間であるのを我々は忘れてはならない。

そして、人工知能が金輪際できないであろう分野も存在する。この時点から人工知能=万能との論理は見事に破綻するわけだ。人工知能は道路を作れず、家を建築できない。やはりここで必要とされるのが人間の肉体資本なのである。だからといって機械を軽視するのではなく、機械と人間の相互の能力を補完し合いながら生きてゆかねばならない。こうした時代を我々は今、生きているといってもよい。

2025-09-03 13:15