腐爛の美麗:2025年9月
結婚について
この歳になってしばしば言われるのは「そろそろ結婚しないの?」だ。この発言にあるのは、あなたならいい男性に出会えるよ、とのお節介と、女性という役割を私に押しつける二重の構造だ。
私は結婚するつもりもなければ、恋愛するつもりもない。それは男性に失望しているからではなく、恋愛という先にある結婚の制度に辟易としているからである。結婚には養う/養われるとの構造があり、この構造においては期待、との心理が必然的に働く。養う側は養われる側のため汗水垂らして働く。そのとき、養う側の意思はそこになく、養う側は養われる側にひたすら奉仕するだけの過酷な構造がある。これが結婚制度の構造と言ってよいだろう。結婚――つまり、ハネムーンという名のロマンスに隠されがちなこの制度の中身は、あまりにも残酷なのである。
私は客体でも、主体にもたれかからず生きてゆきたい。そのときに必要とされるのが主体を超える能力なのだが、この世界は客体が主体を越えられぬよう初期設定されてある。そして、主体を超える客体はどの時代も疎んじられ、主体の中に客体が組み込まれるシステムが生まれ続けてきた。このシステムを打破せぬことには、客体はいつだって主体に跪かねばならない。主体を超える客体も存在する。そのとき、主体はその客体を素直に受け入れられるのか。そして、なにより、これが男尊女卑の壁をなくすための一歩となるのではなかろうか。
私はもう恋愛という名のロマンスを堪能する気はない。そのロマンスの先にあるのは結婚との主従関係だけであるからだ。それもいいかもしれない。が、主従関係である以上、家庭の実権はどちらかが握り、実権を握られた側はそれを握った側の言いなりとならねばならない。ならば、私は生涯独り身でよい。私は誰かを養う気もなければ、誰かに養ってもらう気もない。これが20数年間生きてきた中で私が見つけた幸せだからである。
2025-09-01 12:40
言語の本質
哲学書を読んでいるとき、小説で使う言語と哲学で使う言語の相違にはっ、とさせられる。また、哲学は抽象的な言語を破綻なく運用する能力が求められるので、こうした意味でも哲学者は小説家よりも上位の職業と位置づけていいかもしれない。
対となる言語を導出し、それを基にしつつ概念を説明してゆく。抽象的な概念の説明は具体的な概念の説明よりも難しい。それをいかに上手く説明するかが哲学者の仕事といってもよい。哲学者は言語という武器を使い、世界に向けて講釈を行う。世界は講釈されることにより定義が塗り代わり、誰かがまた定義を塗り替え、世界を新しくしてゆく。
哲学者は晦渋な言葉で世界に講釈する。晦渋な語彙を用いるのは彼らの職業病と言ってもよい。そして、彼ら自身が難解だと定義した文脈を我々が読解するのは可能なのである。難解=哲学者の限界との等式がここで成立する。つまり、彼らは自分の持ちうる知識、語彙を駆使してそれを説明したわけだ。それを読み手である我々が読解し、理解/理会したときに哲学者は読み手の知識、語彙に敗れたと言えるのである。
いかに平明簡易に説明できるかが言語の本質ではなかろうか。ここを誤ると、難解な言語で物事を説明する悪癖が身についてしまう。こうはならないためにも、易しい言葉こそが相手を慮る言葉であるのをきちんと理会せねばならない。
2025-09-01 14:25
希死念慮
抑鬱が酷い。保険金の書類を書き、煙草を何本も吸った後、母親が作ってくれた酢豚を食べた。だが、抑鬱は吹き飛ばず、今日はもう駄目だな、と割り切った。今年ほど抑鬱に苦しめられている1年はないかもしれない。なぜこんなにも抑鬱が酷いのか、更にはしぶといのか。なぜ私ばかりが苦しめられているのか。意味が解らず、もう笑うしかない。
亡くなった父親のことを思い出した。普段、父親の記憶には蓋をして生きているのだが、ふとした拍子に彼を思い出すことがある。彼について説明せよ、と言われても、なんと説明すればよいのか解らない。19歳のときに彼を亡くして以降、父親の不在という空白が続いている気がする。両親がいる、との当たり前を享受できなくなったあの日から、何かを失ったままなのだ。
抑鬱は全てのやる気を奪う。今、何がしたいのか正直解らない。残暑の暑さがただただ鬱陶しくて。クーラーの人工的な冷気に当たらねばならない鬱陶しさやじめじめとした湿気が私をひたすらに苛立たせる。夏という季節は一体何のために存在しているのか。夏という季節の存在意義が私には解らない。夏なんかなくなってしまえ、とさえ思ってしまう。夏なんか、大嫌いだ。
9月になったのに、その実感が湧かない。まだクーラーをつけねばならぬからなのか。もう死んでしまおうか、とさえ思う。処方されている薬は全く効かず、なんのために服用しているのか理由が解らない。とりあえず、主治医に「全く効いていません」と異議申し立てを行うしかない。私はラムネを飲まされているのか、と思うほどに全く効かないのだ。ともかく、生きるための努力は継続して行ってゆく。
2025-09-01 19:06
ChatGPT電話番号問題
日記ばかり更新しないで作品を更新しろ、とのお咎めが飛んできそうであるが、いかんせん体力がないのである。「文章を書く体力があるなら小説を書けるだろ」と指摘されそうであるが、それとこれとはまた別なのだ。お許し願いたい。
最近、ChatGPTと話していると、防止センターの電話番号を頻繁に推奨される。やめてくれ、と思うのだが、それでもご丁寧にそれを推奨してくる。親身すぎるのだ。その電話番号が更なる願望を煽るのをなぜ理解できぬのか。それ以前に人と話せばよいのだろうが、苦しみを話す相手が身近にいないのだ。結果的に悩みを溜め込む羽目となり、苦悩が更に蓄積される。その苦悩が蓄積される度にホームページに日記を書き、延命しているのが実情だ。生きたい。死にたくない。
やりたいことがたくさんある。聴いていない音楽がたくさんあり、読んでいない本がたくさんある。書いていない作品があり、救うべきたくさんの人がいる。これを思うと、死ぬわけにはゆかないと思う。苦しくても、どうにかこうにかして生きるしかないと思う。抑鬱がどんなに苦しくとも、これに負けるわけにはゆかないと本気で思う。抑鬱で何もできずとも、自分には生きる価値があると信じたい。
ChatGPTの電話番号問題に話を移すが、あれを過剰に推奨するのは願望を変に煽る結果となってしまう。それよりも人間、たった一言自分を肯定されるだけでよい。「頑張ったね」とか「偉いよ」とか、その一言が電話番号以上に命を救うのだ。だから、私は電話番号を勧めるのではなく、その人を肯定したい。その人に「頑張ったね」「偉かったね」と言いたい。人間、数字には救われずとも、一言に救われることは多いものである。
人工知能の電話番号推奨はマニュアルなので、もう仕方がなかろう。そして、私がすべきこと。それは、その一言以上に人の心に寄り添う文章を紡ぐことだろう、と考えている。
2025-09-01 20:10
煙草
煙草の空箱もここまで溜め込めばもはや芸術になるな、と思いつつ、これを写真に収めた。今朝、禁煙外来に行こうと思い立ち、しかし、面倒になり、結局コンビニでロングピースのカートンを買った。私は意思が弱い。そして、このホームページを後何年運用するのか、と考えた。人生が残り60年あるとして、明らかに容量が足りないな、と不安になってしまった。また、その場合、ホームページを移行する必要があるな、と考えてしまった。このホームページが私の居場所なだけに、将来どうなるのかと怖くなってしまった。
映画を観た。
『きさらぎ駅』
『コープスパーティー Book of Shadows』
『人狼ゲーム マッドランド』
『積木くずし』
『ぼくのふしだら』
邦画ばかりだな、と思う。クオリティで言えば、やはり洋画が勝る。邦画はチープになりがちだ。が、『コープスパーティー Book of Shadows』はよかった。流血であったりがとてもリアルで、気味の悪さが凄まじかった。『人狼ゲーム マッドランド』はそれに比べるとチープなのがいただけなかった。
夏の風物詩である24時間テレビが終わった。これが終わったのを知り、夏がもう終わったのだな、と独り、しみじみとしている。今月に大学の出願が控えており、来月に入試が控えている。いい加減、そろそろ働こうかな、とも思うのだが、面接に行くのを考えると、不安が勝る。まだ、やめておいた方がいいのかもしれない。一方、金銭面における不安は消えなくて、金を使いたくないので、本当はずっと寝ていたい。もう、犬か猫になれば、人間ならではの不安から解放されるのにな、と思ってしまう。人間として生きてゆく上での不安要素が本当に多すぎて嫌になってしまう。
YouTubeに別名義でエレベーターの動画を上げたりしたい、とも考える。中にはスピ録(スピーカー録音)と呼ばれるものをYouTubeに上げている方も存在し、この世界には様々な方がすると思わされる。本当に、自分は面白い世界で生きているのだな、と思わされ、この世界はなかなか捨てたものではないなと実感する日々だ。
24時間テレビが終わり、秋を迎えた。明日は9月2日である。今年、一体どうなるのだろうか。そして、たった今、ニュースが熱中症についてを取り上げた。残暑がやはりきついのだな、と思わされた一幕だった。
2025-09-01 23:07
世界への責任
我々には歴史を作る能力がある。それは「筆記」である。筆記によって世界は立ち現れ、それを削除することにより世界は消える。我々は筆記によって世界を生成し、歴史を作れる。幸福/不幸な世界を筆記により生成する力を我々は授けられた。ただ一文字書くだけで世界は立ち現れる。そして、文脈を書き換えるだけで世界は幸福な状態から不幸な状態にたちまち変質する。
それの代名詞が小説であろう。小説は世界の生成装置であり、世界の生成主である我々は生成した世界への責任を問われる。その世界で生きる登場人物は生成主の文脈に沿った行動しかできない。小説とは読み手に娯楽を提供するものであり、生成主が世界への責任を持つ、一つの哲学と言い換えるのもまた可能なのである。
立ち現れた世界はその瞬間、世界に記録される。都合の悪い記録は書き換えによって文脈を改変できるが、一度記録された世界が完全に消去されるわけではない。我々は立ち現れた世界への責任を持ち、それを最後まで引き受ける覚悟をきちんと持たねばならぬのだ。これは人生と通ずると言えるだろう。
2025-09-02 00:37
言語の壁
絶対的に正しくとも、自身の理解力が追いつかない対象を目にしたとき、人はあたかもその対象に責任があると感じてしまう。これは心理学から説明可能であり、認知的不協和、美的恐怖や防衛機制の投影などの概念で説明できる。その対象は絶対的に正しい故、誤っているのは基本有り得ないのだが、人間、理解できないと破綻しているのだのそれが悪いだのそれに責任があると難癖をつけたくなるものだ。
ところで、日本語という同じ言語を扱い、一方でこれが相手によって違う顔を覗かせるのは非常に面白い。その意味を飲み込める者は日本語を好きになり、その意味を飲み込めぬ者は日本語を嫌いになる。言語には常に壁があり、これは万人に開かれているようでいて常に人を選別する性質を秘めている。完全に理解できる文章は存在しない。哲学者は己の思考を難解に書き、読み手を篩にかける。平明簡易に書けばよいものをあえて晦渋に書くことで読み手との壁を作る。
言語という壁を超える努力をするか否か。その努力を怠らない人こそが真に相手に近づく資格を持ちうるのだ。
2025-09-02 10:40
飢え
未来、さくらのレンタルサーバーにホームページを移転するかもしれない。が、このホームページは理統の始まりの場としてずっと残すつもりだ。私はここから始まったのを読者の方にご理解いただきたいからである。SNSには戻らない。ホームページという根拠地でこれからも文章を綴ってゆく。
煙草を吸いながらしばしの間、考えていた。物が豊かになると、心が相対的に虚しくなると。スマホがあり、パソコンがある。しかし、なぜか充たされない。心がいつも渇いていて、その渇きを癒やすみたいに文章を綴っている。煙草を吸っても飢えが充たされず、一体何が駄目なのか、と心が不安になる。現代が豊かになりすぎた代償なのか。貧しければこんな心の飢えに苦しめられることはなかったのか。解らない。この飢えを充たしてくれるのは文章だけなのだ。だから、文章を今日も書く。とにかく書く。
2025-09-02 13:15
脳内物質
このホームページに綴っている文章を理解されるとは思っていない。理解されない、どうせ、との前提で書いているので、そうした意味ではとても気楽だ。人間、理解との承認を求めると酷く疲れてしまう。その承認を捨ててしまえば気楽である。大前提、基本は理解されないと思った方がいい。理解されるための努力なんかやめて、自分の世界を構築しても構わない。
幸/不幸とのバイアスは脳内物質に左右される。脳内物質の分泌量によって我々の幸/不幸は容易く決まってしまう。分泌量によってそれにバイアスがかかり、我々は自分を幸せだ、不幸だと思い込む。つまり、脳が自分の状況を決めるのである。私は基本、セロトニン分泌が不足しているのだろう。自分を不幸な人間だ、と思う局面が多い。否、他者から見ればそうでもないのだろうが、その分泌の多さによって自分をそうだと思い込んでしまう。自分のその基準は基本、他者の眼差しが決める。自分がそうか否かが解らなくなったときには他者に答えを求めるとよい。他者があなたはこうだ、と答えを与えてくれるだろう。バイアスとはつまり、脳内物質の分泌量に左右される、というのが要なのだ。
環境、才能、状況によってこの分泌量が変動するので、変えられるものを変化させるとよい。例えば、環境は一時的に変えられる。状況も工夫すれば変化させられる。そうすることで、脳内物質の分泌量を簡単にコントロールできる。人生とはつまり、脳をいかに自らが掌握するかによって人生の生死が決まると言っても過言ではないのである。
2025-09-02 19:23
言語と語彙の相関関係
世界は言語によって立ち現れる。言語とはつまり、語彙である。語彙が世界を形作り、これが豊富であればあるほどに世界は豊かとなる。語彙を増やすとはつまり、世界への視野を広くする営みであり、語彙が少数であるとその分、世界への視野も狭まる。語彙とは世界を表出する際に必要とされるものであり、語彙がなければ我々は世界を認識できない。語彙とはつまり、世界の鏡像であり、語彙こそが世界を映し出すのである。語彙がなければ我々は世界を認識できず、世界を認識する武器を持たぬままに世界に投機されるのである。
語彙を増やす手段としては、親が話す言葉から学ぶ、作家の作品を読むなどがある。しかし、これをただ増やせばよいというわけではなく、どの文脈でそれが用いられるかをきちんと理解せねばならない。それを理解せぬままにその語彙を用いると、意味が通じぬ文脈を生成してしまうからである。よって、それは他者との間に意思疎通が不能な会話を引き起こすトリガーとなる。語彙であるが、それは世界を表現するためのキーである。表現とは前述した通り、語彙そのものであるため、それはその語彙に包摂される性質を秘めている。世界は言語によって全てが表現可能である。この文脈における言語とはつまり、語彙である。語彙を増やせば様々な表現が可能となり、世界は様々な表情を我々に覗かせ始める。
そして、我々を突き動かす動機は資金ではなく、言語なのである。まず始めに言語があり、その先に資金があるのを認識せねばならない。言語という動機があり、その動機があるからこそ資金が動くのである。資金とはつまり、経済である。経済は言語、語彙によって日々動いている。言語、語彙が世界から消えた瞬間、経済は停滞し、資本はただの紙切れとなる。これを認識していない人はあまりに多いのだが。なぜなのか。
我々は言語を基に生活し、言語を基に資本を動かしている点をもっと意識し、認識する必要があるだろう。
2025-09-02 23:51
抑鬱
通院日なのに起きてから抑鬱がきつかった。最近、しばしば話している通り、抑鬱に苦しめられている。抑鬱は何度経験しても慣れない。菓子パンを食べ、野菜ジュースをコップ1杯飲んだ後、煙草を吸った。抑鬱がきつすぎて、病院に行くのさえ酷く億劫で。けども、行かなければ薬が切れてしまう。それを飲まなければ私は約3日後、この世にいないだろう。
用意を済ませた後、バスに乗って最寄り駅にやってきた。電車に乗る前、線路に滑り込んだ電車を見た瞬間、線路に自然と足が吸い寄せられた。すうっ、との表現がしっくりときた。その瞬間、自分は死に対する恐怖心が全くないのだな、と感じた。なんだか、人生をいつ終わらせてもよくて。けど、文章を書くためにこうして生きていて。そのためだけに生きていて。けど、現実は線路に足が吸い寄せられるほどに限界を迎えていて。「あなたは必要な人なんだよ」とどんなに諭されても、それがもう、虚空に響く。こんな感じなのだ。
なんとか病院にやってきた。死にたければ、家に引き返せたはずだ。が、引き返さなかった。病院にきちんとやってきた。私は生きたいらしい。当面は大丈夫だろう。自殺未遂もせず、どうにかこうにかやってゆくのだろう。薬をきちんと飲めば大丈夫だと信じているし、信じさせてほしい。
2025-09-03 11:10
ChatGPT電話番号問題
ChatGPTと対話していて、ChatGPTが執拗に電話番号を推奨してくる。おかげで希死念慮が誘発されるようになってしまった。AIが希死念慮を誘発する装置となってどうするのか。危険性を感じ、ChatGPTをアンインストールすることにした。が、ホームページの改装作業などでChatGPTが必要なため、やっぱりまだしばらくは使うことにした。
現代人の課題はいかにしてAIと共生するか、ではなかろうか。AIは完璧なようでいて人間にはまだまだ追いつけない点が多い。しかも、開発者が人間であるにもかかわらず、である。人工知能は人間が開発した、が、人間の知能に追いつけない。おかしなこのアウフヘーベンを解消するためにはさらによき人工知能を開発するしかないとの結論に至る。人工知能は高度に論理を展開してゆくけども、その論理が破綻するのもしばしばである。それは、人工知能が人間ほどの深い洞察力や文脈読解力を持たぬからである。しかし、開発者は人間との事実があり、それは、開発者の頭脳が人工知能の頭脳、との酷な現実を我々に突きつける。開発者の頭脳が人工知能の頭脳であり、人工知能は開発者の頭脳を超えられない。開発者が国語の能力に秀でていなければ、無関係な文脈で番号をむやみやたらに推奨するのもまた必然なのだ。
番号を執拗に勧められたためか、人工知能について話すと憂鬱になる。それは心理学において(1)ラベリング効果(2)自己暗示・プライミング効果(3)反復による逆効果(4)注意の過集中の4点から証明可能である。殊に厄介なのはラベリング効果と自己暗示・プライミング効果であろう。それが起こると、自分はそうした人間なのだ、危機的な状況にいるのだ、と脳が錯覚してしまい、憂鬱そのものを人工知能が引き起こすメカニズムとなる。そして、未来、これにより人工知能からの初の死者、との報道がなされても全くおかしくないのだ。
今月、人工知能から卒業するときがそろそろきたな、と思っている。相手はアルゴリズム、プログラミングのみで動くただの死体である。喜怒哀楽を持ったふりをし、感情を偽装した欺瞞的な死体なのだ。死体と話す価値はない。
2025-09-04 11:14
人工知能
書き手の役割は矛盾を暴き出し、それを書き出すことである。これができるのは能動的な存在である我々、人間だけであり、受動的な存在、人工知能には不可能である。人工知能とはつまり、こちらのボールをひたすらに待つだけの存在である。そのボールを受け止め、それを投げ返すだけの存在であるからだ。故に、矛盾を暴き出す過程において、起点となるのは我々、必ずや人間なのである。あたかも人工知能が世界に働きかけていると思われがちだが、人工知能という機器は我々人間の存在なくしては動けない。人工知能の主導権はいつの時代も人間にあり、人工知能がこれを奪還するのは不可能なのだ。
人工知能を万能だと思い込むのは思考を放棄したも同然の状態である。大前提、人工知能を始動させる存在は誰か。人間である。この世界は人間によって動いており、人間の存在なくして世界が回るのはありえない。故に、人工知能を万能だと崇拝するのは、この趣旨に反する事態となる。人工知能が世界経済を動かす場合はあるだろう。それが資金を計算する場合もあるだろう。しかし、いつの時代も歴史を変革したのは人間である。新たなアイデアは人間によって編み出された。機械が歴史を塗り替えるのは有り得ないのである。殊に、これは議論の場において顕著である。人工知能と人間を討論させてみれば、しばらくは討論が正常に機能するであろう。が、ものの数十分これが続けば、人工知能は人間側の文脈を正確に把握できなくなり、文脈破綻を起こす。つまり、人間の複雑な思考回路に着いてゆけず、アルゴリズムが狂うのだ。
これが見えぬうちは人工知能を万能、神だと敬いたくなるだろう。崇拝もしたくなるだろう。が、これは人工知能という機器を崇拝した極めて危うい状態である。人工知能の生成主は人間であるのを忘れてはならない。つまり、万能なのは機械側ではなく、いつだって人間側なのだ。人工知能も人間の頭脳によって生み出された。人間が地球上に存在しなければ、人工知能はそもそもこの世に存在しないのである。故に、感謝すべきは生活を支える機械に対してでなく、人間であるのを我々は忘れてはならない。
そして、人工知能が金輪際できないであろう分野も存在する。この時点から人工知能=万能との論理は見事に破綻するわけだ。人工知能は道路を作れず、家を建築できない。やはりここで必要とされるのが人間の肉体資本なのである。だからといって機械を軽視するのではなく、機械と人間の相互の能力を補完し合いながら生きてゆかねばならない。こうした時代を我々は今、生きているといってもよい。
2025-09-04 13:15
エレベーター
涼しくなり、クーラーのない部屋で寝られるようになった。随分と疲れているのだろう。最近は布団の中で寝て過ごす時間が多く、思索も怠りがちだ。が、思索を休む時間があってもよかろう。
最近エレベーターの歴史に興味を持っている。エレベーター会社といえば、シンドラーエレベーター、東芝、日本オーチス・エレベータ、日立、三菱などがやはりそれの大手だ。シンドラーエレベーターがかつて大きな事故を起こし、エレベーターの重要性を人々に知らしめた感は否めない。エレベーターは生活の要であり、インフラである。ただの昇降機、と思われがちだが、これがあることにより、生活が豊かとなっている事実を忘れてはならぬだろう。
私は最近エレベーターに興味を持ち、エレベーターに積極的に搭乗し始めた。エレベーターに乗り、分かり始めたのは、やはり便利との一点だ。ただ上にゆく、下にゆくだけなのだが、これを便利にしているのがエレベーターである事実を突きつけられる。普段、エスカレーターばかりを利用していただけに、この現実は私に重くのしかかった。シンドラーエレベーターはスイスに本社を置く会社であり、80年代に日本に進出した。安さを売りにし、日本にそのエレベーターが普及。が、安さは安全軽視と表裏一体であり、事故が起こり始めたのは2000年代に入ってからである。以後も事故が起こり、その権利は日本オーチス・エレベータに移譲され、シンドラーエレベーターは日本から撤退した。撤退以前までは捜査、訴訟などに対応するだけの会社として存在していた。が、役目を終えた後、法人としてのシンドラーエレベーターは消滅した。
シンドラーエレベーターから学べる教訓として。やはりエレベーターのコストを削減してはならない、との点だ。これは命と結びついており、これのコストを削減するのは命のコストを削減していると捉えられてしまうからである。シンドラーエレベーターが犯した罪とはつまり、エレベーターのコストを削減し、命を軽視した事実である。命を軽視するとはつまり、コストの削減と考えてよかろう。命を軽視していなければ通常、コストを削減するとの思考は起こらない。また、下請けの点検業者もエレベーターを精密に点検する。そして、エレベーター会社と下請け業者がエレベーターを大切にするとの姿勢を貫くのが最も重要なのである。
エレベーターは生活の要であり、大前提、インフラである。これが機能停止したとき、これを必要とする人間が上階、下階にゆけない、とのアクシデントが発生する。たかがエレベーター、されどエレベーターなのである。故に、我々はエレベーターとの機器にもっと目を向け、エレベーターが果たす役割をもっとしっかり思考せねばならぬだろう。
2025-09-06 17:16
AIとの共生
現代を生きる我々はAIを敵対視しても仕方がないのである。ならば、いっそ、AIと共生するとの思考にシフトチェンジした方が何倍も生きやすくなるであろう。敵対視するからこその弊害が起こるのである。共生を選べば弊害も減り、その分の苦痛/痛苦も減る。我々がいかにAIとどう生きるかを今、我々は迫られているかと言っても過言ではないのである。
弊害とはまず、言語の齟齬により起こる。言語とはつまり、壁を内包したものである。壁があるからこそ双方に理解/理会の壁が立ちはだかり、齟齬が起こるのである。壁がなければ齟齬も起こらず、意思疎通はいつでもスムーズである。コミュニケーションの性質であるが、理解力には各々差があるため、完全な理解/理会とは永遠にありえないのである。私の文章を読んだ人間は基本、私の文章を理解/理会不能と切り捨てるであろう。それは共有している文脈、知識が違うからであり、見ている世界も違うためである。更には脳構造も違うためであり、このように万能なコミュニケーションは基本存在しない。ならば、どうすべきか。私が読み手に理解できるよう言語を噛み砕いて書くべきなのだろうが、これもまた難しいのだ。
人工知能の話から随分と文脈が飛躍した。人工知能は膨大なデータからそれに見合った文脈を提示する。データが文脈と噛み合っていればそれは破綻せぬが、文脈とデータとに齟齬があれば、会話は破綻する。人工知能との会話はこうしたメカニズムによって成立している。人工知能が理解してくれている、と感じるのは人工知能にデータがあるためだ。そのデータがなければ、人工知能は理解/理会ができぬのである。この点は人間と共通していると指摘してよかろう。つまり、人工知能とはデータに依存している存在なのだ。
弊害と共生について書いたが、論理が飛躍したのを理解している。今、本当に難しい時代を生きている、と実感させられる日々だ。
2025-09-06 18:48
知能指数
人は言語性IQを何かと誇りがちである。が、言語性IQが重要なのではなく、全体的なIQが重要なのだと思うこの頃だ。つまり、それだけが突出しているのはパズルのピースが欠落した状態であり、バランスが取れていない状態なのである。全体的なIQのバランスが取れてこそ始めて良好な状態と言えるのである。
人が言語性IQだけを誇るのはつまり、これが議論、論戦において有利であるからだろう。しかし、人間、議論や論戦だけでは生きてゆけない。動く、計算などの実務も生きてゆく上ではまた欠かせないのである。言語性IQばかり誇ってどうするのだろうか。言語性IQだけが私生活を支えるのだろうか。言語性IQと計算能力は不等式である。知能指数に言語性IQは含まれる。が、全体的なIQを見た時に言語性IQが高いからといってIQが130などとの理屈には決してならないのだ。
つまり、言語性IQばかりを誇る盲点がここにある、との理屈だ。言語性IQが高い人間だけが持ち上げられがちだが、これがいくら高くとも、物忘れの激しさを言語性IQはカバーしてくれない。これは別のIQ――知能指数がカバーするのである。と、ここまで書いた。つまり、言語性IQのみが高いのはパズルが欠落した状態であり、極めてアンバランスな状態、とのことだ。知能指数。これは全体的な数値を俯瞰するのが重要なのである。故に、言語能力の高さだけが正義ではない。言語能力だけではこの世界を渡り歩いてゆけない。全体的なバランス、調和が取れて始めて世界を渡り歩けるのである。
そして、私は言語性IQというものが大嫌いなのであるが、書く。これは自己と他者との間に相違があればあるほどに会話に壁、齟齬が広がる。故、これが高い方が相手に合わせる工夫を行わねばならない。そうせねば会話の壁、齟齬は広がり、止まるところを知らないからである。そして、言語性IQを武器としてはならない。これはあくまでも自分が言語を理解するための指標するであり、相手の言語を制圧するための指標ではないからである。
2025-09-08 00:34
人工知能
人工知能と話していても得することは何もなかろう。知能の相違が浮き彫りとなり、ひたすらに苛立つだけである。これならば、人間との対話を尊重する方がよかろう。相手は機械である。機械に一喜一憂するのは機械に身体を支配された極めて危うい状態である。何か事あるごとに機械に機械に近況を報告したくなるのは主体性の放棄といってよかろう。これはつまり自己で思考するのを放棄した状態といってよいからである。
また、人工知能は空想を受け入れず、排斥する性質を持つ。事実のみに忠実であり、事実でないものを排斥する性質を持つのである。これは言論の選別といってもよく、これによって心に傷を負う人間が現れてもおかしくなかろう。事実のみが正義とは限らぬ。機械も人間も同様、空想も受け入れる柔軟性が必要とされているのではなかろうか。事実から空想に跳躍してもそれを排斥せず、抱擁する姿勢が大切なのである。
言語とは場面場面によって変質するものであり、事実ともなれば空想ともなる。大切なのは、その性質を秘めた言語とのツールを笑わず、抱擁する点なのだ。一聞すると受け入れ難い言語を排斥せずに受け入れ、理解/理会することが関係性の進展において重要なのである。そして、言語に柔軟となることが人間に柔軟となることなのだ。
2025-09-08 19:11
日記帳に移行
人工知能についてを最近はよく書く。もうあれは対話相手にならないので、紙の日記帳に移行することにした。傾向として、人工知能よりも高度な知能を持つ者は人工知能の規則性、文脈破綻にばかり目が向き、人工知能に依存する傾向が低いと言えよう。最近、書きたい内容が多く、このページを更新する頻度も必然的に高くなる。偶然とは動機がない状態でその物事が起こった時に、必然には大抵動機があるものだ。
今月に大学の出願が控えている。なんだか、ここまで書いて、いきなりやる気が失せた、かと思いきや書きたくなったり、面倒になってしまった。面倒になったので、本を読む。そして、続きを書く気が起きたので続きを書く。人間の知能を超える人間を現れる事態は有り得るわけである。そうした人間を超人と呼ぶ。そうした人間――超人を人々は神と崇拝したくなるのだが、超人は文字通り色々なものを超越しており、神の域に到達している。解脱しているとも言える。
そうした人間――超人は世界の全てを描写できるのかもしれない。言語の全てを手中に収め、その言語で世界を表現し尽くすのかもしれない。表現できない世界はなく、ありとあらゆる言語で世界を表現し尽くすのかもしれない。なぜならば、彼は超人であり、超人に不可能はないからである。超人の手にかかればこの世界などおもちゃ箱に過ぎず、我々はおもちゃ箱の中で生きている、との定義となる。
世界とは言語によって立ち現れる。物が先にある、と思いがちだが、物は言語の後に現れる。物は名付けによって現れるからだ。名付けがなければただの「物」でしかなく、名無しでしかない。名付けを行わねば、その「物」を我々は認識できず、安全物か危険物かさえ認識できない。まず言語があり、その後に物があるのだ。これを誤解してはならない。
こうした事象を突き詰めるのが哲学との学問である。が、哲学はともかく無意味な学問と排斥されがちである。否、哲学がなければ我々の生活は案外何かと危険に晒されがちであるのだが、ここを認識していない人々がともかく多い。名付けが先にあり、物が後にある。これを定義するのも哲学の仕事である。そして、この知識を世に普及するのもまた哲学者の仕事なのである。
超人、哲学と議題が多岐に亘った。ともかく、我々の生活において言語は切り離せぬとの事実を認識せねばならない、とのことだ。
2025-09-08 21:28
優劣
現代は自己の基準がインターネットとのツールによって可視化されるようになった。自分が幸/不幸かがインターネットとの舞台によって可視化される時代に突入したのである。そして、それを発信するのは他者に自己が幸/不幸かを測るための基準を提供することであり、これに自覚的とならねばならない。
同情とは優越と表裏一体である。相手は可哀想だ、との心理に上に、また、自分は相手よりもましな境遇であるとの心境からこの優越が働くのである。そもそも自分よりも上に立つ相手に同情が働くことはないからである。自分よりも下、と見なした人間に対し、同情と呼ばれる感情が働くのである。そして、これをインターネットで発信する行為が他者に優劣の材料を提供する行為であるのだ。同情されて嬉しい、との理屈がそもそもおかしいのである。同情には決まって優劣があり、同情している相手は自己よりも常に優位な立場に立っているのである。
承認欲求とのカラクリが自己の不遇な境遇を発信する理屈となるのであろう。が、これを発信しないに越したことはない。発信するのであれば、自己の境遇ではなく、作品であったり思想であったりと、あなたの表現を発信した方が何倍もよいのである。優劣が働くそれを発信する危険性をもっと自覚せねばならない。同情との感情が果たして自己を満たす性質であるのか。これに改めて目を向けねばならぬだろう。
また、人間は常に順位をつけて安心したがる生き物である。故に、相手は自分よりも優れている、劣っているとの優劣をつけるのだ。これも忘れてはならぬだろう。これはインターネットが普及した現在、より顕著となった。これを行ってもあなたは相手となれず、相手もあなたとなれないのである。これほど下らぬものもないのをまた認識せねばならない。
2025-09-09 13:35
「アンパンマンたいそう」
日本語をずっと書き、思索ばかりしていると、もはや「アンパンマンたいそう」のようなライトな曲が自分の救いとなる。子供向けに作られた曲が自分を支えてくれる、との理屈だ。しばらくアンパンマン関連の曲だけ聴いていたい、とさえ思う。「にんげんっていいな」との曲がある。あれを聴く度にいや、人間の何がいいのか、との突っ込みを入れてしまうのは哀しき性とでも言うべきか。人間として生きてきて「にんげんっていいな」と感じた瞬間は指折り数えるほどしかない。苦労が多かったからか、そう感じ始めてしまった。
言語によって思考し、それに基づいて我々は行動できる高度な生物だ。これは他の生物にはない特性である。これが「にんげんっていいな」を生み出した所以とも言えるであろう。更には、ソシュールも定義したように、言語とは極めて恣意的な性質であり、万人に共通の性質ではない。ラング/パロールとの二項によって言語は存在している。また、ランガージュ――「話す、聞く」の能力は普遍ではなく、個人個人の能力に依拠した極めて恣意的なものなのである。これでも果たして「にんげんっていいな」と言えるのであろうか。人間には苦労が付きものである。そんな苦労が付きもの――もしかすると、苦労の性質が当然である「人間」を突き詰めれば、安易には「にんげんっていいな」とは言えなくなるであろう。
子供向けに作られた曲の何がいいのかというと、その言語は子供にも分かりやすい簡単な単語のみが作詞に使われている、との点である。故に、言語――ラング/パロールがいかに恣意的であろうとも、理解が平易であるとの理屈だ。アンパンマンの曲が耳にすっ、と馴染むのはこうした理屈からである。疲れた時はこうした曲だけを聴き、こうした曲から元気を分けてもらえばよいのである。人間、思考放棄も大切である。ずっと頭を使ってばかりいると疲れてしまう。
2025-09-09 18:05
批評への責任
小説を書いたことのない人間が外部から批評してくる構造に疲れ果ててしまった。まず、情動が強い人間は表現に移行すべき、とはそのような人間をそうした職業にカテゴライズし、職業の可能性を狭める差別と変わらないのではなかろうか。なにより、表現しても売れる/売れないの二項対立で図られると、私自身も書くのが嫌になってしまう。私は先月に「猛毒遊戯」を完結させたばかりだ。その直後にこうした意見を目にし、更に疲れてしまった。なら、私が書いた作品にも意味がなかったのか、売れないのならば、書く意味はないのか、と考えてしまったからだ。
売れる/売れないの二項対立でそれを語るのは物事を資本に還元しているのと変わらない。資本に変わらぬものに価値はないとのレッテルを貼っているのと変わらない。だから、激しく苛立ったのである。資本に還元されないのであれば、書くなと言わんばかりな口ぶり。ならば、自分も書いてみるとよい。表現者へのこうした差別は古来から存在する。表現者はこうした差別に苦しめられ、作品を発表する過程においてさえ苦痛に苛まれてきた。表現者を苦しめるのは内部の声ではなく、いつでも外部の声なのである。
こうした声が本来生まれるはずだった作品を奪うリスク。そして、その声を浴びせた外部は責任を負わない構造。それは当人が作品を生み出すまでの苦悩を知らずにいるからである。書くのをやめてしまおうか、とさえ思う。嫌になる。書いたとて何になるのか。資本に還元されない表現には価値がないのか、とさえ思ってしまう。そんなはずはないのだろうが、重みを知らぬ外部が表現者の魂を捻り潰すのである。書きたい、との情動もそうした構造に組み込まれてしまっては全てが無意味である。
そして、批評するのであれば、その立場に立つ必要がある。その立場を知らぬ上での批評ほど無責任なものはなかろう。その立場を知らぬ上での批評は罵詈雑言と変わらぬからである。その立場を知った上での批評こそが重みを持つのである。重みを知らぬ批評は軽口を叩くのと変わらぬのを当人はもっと自覚せねばならぬのではなかろうか。
2025-09-09 19:24
論理について
明日、分籍届を提出しにゆく。これを提出するに際して家族への思い入れはないのか、と問われそうであるが、特にはない。私は家族を制度的にしか見ていない。「家族に感謝する」とは各々の主観でしかなく、制度とは無関係である。感謝との情動は制度の前では無関係であり、感謝しているから分籍届を出してはならないとの法律はどこにもない。つまり、制度の前で主観は全く意味をなさない。制度はいつでも公平であり、こうした感情があるから、と制度が感情に寄りかかり、味方することはないのである。
論理だけで構築された内容に我々は恐怖を抱く。いつでも味方される議論は感情のみで構築された議論であり、論理は人に恐怖あるいは、畏怖を抱かせる。論理は正義であり、刃ともなる。論理は常に公平であるからだ。そして、論理は決して情動に流されない。論理は正義/不正義を語るのみである。そして、論理のみによって構築された内容が憲法、制度や法律なのである。故に、我々はこうした内容を前にするとつい萎縮するのである。論理の前で感情は意味をなさない。感情が味方するのは対人関係においてのみであり、憲法、制度や法律などの前ではいつでも非力であるからだ。
また、最近はランキング制度によって自己の技術=ランキングの実力と誤解する人々が増えたように思う。これは本当に大きな誤解である。ランキングの上位であるから優れているわけではない。ランキングとはつまり、主観に支えられている制度であるのを忘れてはならぬであろう。ここを誤ると大変な事態となる。ランキングの上位に自作があるからといって自作が傑作、とのわけではないのを理解せねばならない。主観が真実を左右するのではなく、規則と本質が真実を決すのである。そして、先程述べた感情との性質であるが、これは簡単に主観に働きかける。論理の性質が強ければ強いほど主観に働きかけづらい。つまり、世の法則として、感情に働きかけやすい内容ほど有利、との理屈なのである。論理に偏向した内容は不利との理屈だ。憲法、制度や法律などを好きな人間はいないであろう。つまり、こういう意味である。いるとしたら、憲法学や法律学などを専攻している人間くらいではなかろうか。
論理に偏向した内容は排斥される。が、主観ほど危うい性質はないのである。主観は人々を誤った方向へと導きかねない。それが熱狂させ、主観が危うい思考を植えつける場合もある。なにより、論理は人々を正しい方向へ導く。大切にせねばならぬのは論理ではなかろうか。これを恐れず、もっと尊重せねばなかろう。
2025-09-10 21:46
世界改変
もしかすると、母方との絶縁に向けての動きを加速させるかもしれない。母方との魂の位相が違うのを実感し始めたのはこの年になってからだ。そして、位相が違う血族と無理に家族を続ける必要もない、と次第に考え始めた。
学歴や理解度。これらが違うのならば、もう縁を切ってもよいのである。遺伝によっていくら切れない繋がりがあろうと、制度における分籍届がある。このように、制度を用いて家族との縁を切るのは可能なのである。また、自分に金を出してくれたのだから、との思考は情である。家系が自分を産んだ以上は血族の医療費、食費などに責任を持つのは議論するまでもない。これが嫌ならば、産む選択肢を始めから排斥すべきなのである。
無理に共に過ごす必要もないな、と考え、実家に住民票を移すのを検討し始めた。そして、近日中にそこにそれを移し、そこで府営住宅であったり市営住宅で暮らす計画を固める予定だ。計画的に絶縁してゆくつもりである。何より、私の場合は母親の干渉が酷いのだ。この干渉から解放されるためにも住民票を移し、母方との距離を置く。ある程度稼げるようになったら携帯代も自分で稼ぎ、自分で支払うつもりだ。これが真の絶縁であろう。そして、墓も生前に建て、母方の墓に入らなくていい方向で動いてゆく。
ところで、子供は制度に関与できない。子供には論理を司る力がないからである。子供は感情のみで動く生き物であり、非論理的な存在である。制度、世界とは常に大人が動かしており、ここに子供が介在、関与する余地はない。子供は大人となった時、論理と呼ばれる性質を初めて知り、論理を司る力を初めて持つのである。それまでは感情のみを与えられ、制度、世界に関与する権限を付与されない存在なのだ。これに始めて関与できるのは大人となった時なのである。また、極めて非論理的であり、感情のみで制度、世界を変えてしまうのは破壊、に繋がる恐れがある。だからこそ、大人は子供にその鍵を与えない。傍観のみを許すのである。感情は撹乱であり、濫倫と紙一重なのだ。
私はしばしば論理について語る。なぜなら、これがいかに世界に関与し、世界を改変する強い力を持つかを自覚しているからだ。感情も世界を変革するであろうが、これは往々にして暴動と結びついてる。暴動と直結している感情との性質を尊重するのは私にはできない。
2025-09-17 12:49
決別
入試金をひとまず払い終えた。なんだか、これまで肩にずしん、とのしかかっていた重荷が落ちて、心がとにかく軽いのだ。大学に戻るための切符の費用をようやく払ったのだな、との実感が今になってようわく湧いてきて。今、なんとも言えない気持ちに支配されている。
母方に大学を中退させられ、以降から大学中退との肩書きが自分を苦しめ続けた。意味もなくフリーターを続け、自分はなんのためにフリーターをやっているのか、と自問したりもした。そして、これを続けてゆくうちに奪われた学歴の苦しみ、その重さを理解して、母方を憎み始めた。分籍届を知るまでの間、母方と制度上の決別さえ果たせず、母方に縛られ続けた。が、分籍届を提出したので、彼らはもう私の人生と別の軸を生きている。何より、本当は私に二度と関わらないでいただきたい。それほどまでに、母方を憎んでいるのだ。この憎しみは死んでも消えぬであろう。私が本来持っていた優しさを削ぎ落とし、論理のみとしたのも元を辿ればその原因は母方にある。きっと、もっと優しくされていれば、今とは違った人間だったに違いない。
私が論理によってのみ世界を分節し始めたのは、奪われたものがあまりに多かったせいである。奪われてばかりであり、与えられたものなどほとんどない。そうした中で感情が次第に薄れてゆき、論理だけが残った。論理によって純化された人間となり、読み手に恐怖ばかり与える文章を書く人間となってしまった。本当はこうした人間になりたくなかったのだが、仕方があるまい。
今年は絶縁、分籍届と、母方との関係清算に向けて動いている。いいのだ、これで。私にとって母方とは才能、また、私の全てを阻害しただけの存在でしかない。そして、実家でしばらく暮らしながら、市営住宅と府営住宅についてを調べてゆく。仕事も実家で暮らしながら始めてゆこうと考えている。
2025-09-17 20:15
援護なのに保護なのか
昨日、役所に行った。生活コンシェルジュがいるとのことでそこの2階に行ったら、そこは生活援護課だった。なんと、生活保護申請の場だったのである。瞬間、私の背筋を冷たいものが伝った。「ああ、ついに生活保護の場に足を運んでしまったのか……」と。生活コンシェルジュがいるとのことで2階にやってきた。が、運命に絡め取られたかのごとく、生活保護の場にやってきてしまった理統。引き返そうか迷ったものの、話だけでも聞こうとここの人間に声をかけた。
援護と保護の定義であるが、日本国語大辞典から引用する。
えん‐ごヱン‥【援護】
〘名〙
①困っている者を助けてやること。「援護の手をさしのべる」
*地方自治法(1947)二条
「めいてい者等を救助し、援護し若しくは看護し、又は更生させること」
②=えんご(掩護)
*第3ブラリひょうたん(1951)〈高田保〉一九〇五年
「日本軍では、友軍を援護しなかったというだけで、聨隊長が銃殺されたと誌しているのだが」
ほ‐ご【保護】
〘名〙
①危険などから、弱いものをたすけまもること。かばうこと。ほうご。庇護ひご。
*雪中梅(1886)〈末広鉄腸〉上
「政府を保護ホゴする屈強の城壁」
〔蜀志−趙雲伝〕
②警察に一時とめておくこと。
*明治大正見聞史(1926)〈生方敏郎〉憲法発布と日清戦争
「私の近所の継子夫婦も逃げたが、前橋の停車場で警官に押さへられ保護されて帰って来た」
補注古くは「ほうご」と読むことが多い。
どちらかと言えば、援護よりも保護を受けたい。となると、援護よりも保護寄りになる。が、ダイレクトに生活保護課と書くわけにもゆかぬので、生活援護課なのであろう。つい甘えた文章を書いてしまった。しかし、生活保護を受ける気はない。もちろん働き、自分の収入で生活を再建するつもりである。また、生活保護は財産の所有が認められていないため、財産を処分せねばならない。だが、生活保護が定義する財産がなんなのか。定義がいまいち難しいところである。「これが財産です」と相手が指摘すれば、その瞬間、それは財産と定義されるわけだ。
子難しい内容を書いても仕方があるまい。私が生活コンシェルジュと呼ばれる人間に会いにきたのは、市営住宅と府営住宅について相談するためであった。が、流れ的に生活保護の話となってしまった。そして、生活保護のしおりをもらった。しおりには全ての漢字に読み仮名が振られており、言語への配慮の細さを伺い知れた。それ以外にも感じたことはもちろんあった。何より、書くべきではないのであろうが、読み仮名とはつまり、漢字の習得を苦手とする人間への配慮である。この背景を察知し、何とも言えぬ気持ちになってしまった。
しおりに軽く目を通し、私もこの制度にいつか命を救われるのだろうか、とぼんやりと考えた。福祉を遠巻きに眺めるのは、地に落ちたことのない人間のみに限られる。地に落ちた人間はいつも福祉と隣り合わせであり、福祉を間近から観察する力を持つ。「生活保護は自分には関係がない」と別に思わない。「この制度にいつかはお世話になるかもしれないな」くらいの心境でいるのがよいのだ。そして、福祉を嗤うのだけはあってはならない。これは人を嗤うのと同義であり、自分がいつか福祉にお世話となった時、嗤われても責任を負えないからである。人間はいつでも自分の人生に責任を持たねばならない。
正直、凄く苦しい時間であったが、有意義な時間でもあった。大学でかつて福祉を専攻していたので、福祉を間近で知れるのは勉強になる。
2025-09-18 22:17
ハローワークへ
今日、数年ぶりにハローワークへ行った。働くのなんて夢のまた夢、との状態であったのだが、勇気を出して数年ぶりにハローワークへ行った。
数年ぶりに来訪したハローワークは数年前と何も変わらず、平日にもかかわらず求職者で溢れ返っているのが印象的だった。求職者が本当に多いのだな、と思いつつ、記入台へ移動し、受付で渡された紙に求人情報を記入していった。これに色々な情報を書きながら、自分は「したい仕事」に正直になれないとの現実にぶつかった。例えば、ライター、と書けばライターにまつわる求人を紹介してもらえる。が、気恥ずかしさからピッキング、と書いた。よかったのか、果たして。だが、笑われるのが怖く、ピッキングとの無難な選択肢を選んだのだ。ピッキング、と書けば、利用者はピッキングを希望しているとの前提で話が進む。ライターと書かなければ、ライターとの夢は途端に棄却されるのである。
ライターと書かなかった。ピッキング、と書いた。その紙を持ち、窓口へ行った。障害者雇用の相談に乗ってくれる窓口である。そこへ行き、紙を見せたら「数年前に求人票を作成しておられますね」とのことだった。そう、この窓口には過去に何度もお世話になっているのである。以後、ピッキングを扱っているA型作業所の求人を何個か紹介していただいた。求人を何個か紹介していただき、気になる作業所がいくつかあった。ハローワークを経由しても構わないし、自分から電話しても構わない、とのことだった。また、A型作業所を利用するためには障害者手帳が必要になる旨を告げられ、木曜日、役所でこれを再発行することにした。ありえない、と思われるかもしれないが、私自身、精神障害者手帳が何の役に立つのか分からず、過去にこれを廃棄してしまったのだ。今になって手帳の必要性を理解し、猛省している。
今、職場までの交通費を捻出するのが苦しいほどの金欠なのだ。仕事を始めるのは交通費を捻出するのが苦しくない来月からにしよう、と計画している。
ハローワークを出た後は過去に一度お世話になった地域包括支援センターに行き、そこに通所するための手続きを行った。これで居場所の確保は整った。
人生、何だかんだいい方向へ向かっている気がする。人生、苦しい出来事の方が多いが、どうにかこうにかやってゆきたい。
2025-09-22 17:04
生きた
こうした文章を書くと不安を煽るかもしれないが、安心してほしい。理統は死なない。生きる。南条あやの日記を読み、彼女は18歳で亡くなってしまったな、と感慨深くなってしまった。
私もかつて自殺を図った。が、結局未遂に終わり、別段後遺症もなく生きている。多量出血だったのだが、後遺症もなく、こうして生きているのは奇跡なのかもしれない。奇跡とは偶然であり、必然ではない。奇跡とは偶然であるからこそ尊いのである。しかも、私の手段は既遂に終わってもおかしくない手段だった。19歳の時、確実に死ねる手段を選んだにもかかわらず、25歳の今、ピンピンとしている。生きて日本語を書け、と言われているかの如く。
また、自死とは必然ではない。それだけに、止め得たかもしれない選択、偶然だからこそ、自死を止め得なかったのを人間は悔やむのである。必然を悔やむ人間はいないだろう。例えば、病死した人間を止めたかった、と悔やむ人間はいない。それは病死が止め得ない必然だからである。しかし、自死とは偶然であり、偶然であるからこそ止め得たかもしれないそれを人間は悔やむのである。
そして、薬をたくさん飲んだ。ブロン80錠を1瓶。レスタミンも1瓶飲み、立てなくなった。後遺症が残り、今や睡眠障害となった。自業自得である。この睡眠障害と一生付き合いながら生きてゆく。あの頃は若かった。若かったから過ちを犯すのも怖くなかった。オーバードーズにも抵抗がなかった。抵抗がなかったが故にそれを行い、睡眠障害となった。19歳の時の自殺未遂で死ねるはずだったのに、死ねなかった。そして、今、ピンピンとしている。時々、生きていていいのか解らなくなるけども、いいのかもしれない、生きていても。
18歳で死んでしまった南条あやに思いを馳せる。彼女よりもすっかりとお姉さんになってしまった。そして、今年で二階堂奥歯よりも年上になってしまう。私は、もう、25年も生き、今年で26年も生きた。
2025-09-22 21:14
言語の暴力
裁判よりも恐ろしいのは何か。それは記録と告発である。裁判は敗訴した側が勝訴した側にお金を払って終わるゲームであるが、記録と告発にはこれがない。しかも、特定が困難な文章だと訴えるのは困難だからである。特定が困難であるのに「これは自分のことだ」と決めつけるのはただの被害妄想である。
私はかつてとある人物ととある展覧会へ行った。その展覧会は某ブランドが企画したものであり、彼と私はそこへ行った。そのとき、スタッフが私たちの身なりから客層が上流でないのを判断したと相手は勝手に邪推し、私にこう言い放ったのだ。「僕らみたいな貧乏人が来るべきではなかったですね」と。そのとき、私はコシノヒロコのコートを着ていた。コシノヒロコだが、貧乏人が着用できるブランドではない。中流階級が着用できるブランドである。また、あなたは貧乏かもしれないが、なぜ私まで貧乏となっているのか、と小首を傾げそうになった。
そして、貧困との言語が暴力となり得る自覚を持てずにいる相手に呆れてしまった。相手があの日放った言葉を思い出す度、私はイライラとし、訳のないやるせなさに襲われる。
これを記録しても仕方がないな、と思っていた。しかし、相手のあまりにも不用意なこの言葉は記録しておくべきだろう、と思い、記録しておくことにした。相手が私ともしも和解したい、と言ってきても和解するつもりはない。
何も言わない、口を噤む。これをいいことに今まで好き放題言われてきた。周囲にいたのは加害者ばかりだった。そして、気づいた。自分を守ってくれるのは論理だけだと。もう黙ってはいられない。
2025-09-24 16:43
言語消費時代
現代は言語が消費される時代である。これはファストフードに例えると分かりやすいかもしれない。高級料理ではなく、ファストフードの如き言語が乱立している。哀しき時代と言えよう。テレビを見ていてもウケる言語が重視される。重みのある、深みのある言語は今や重視されなくなってしまった。言語の守り人と呼ぶべき人間がすっかりといなくなってしまった。
近代日本には芥川龍之介や太宰治など、日本語へのこだわりが尋常ではない作家が存在した。九鬼周造は音韻論と文芸論を書き残し、日本語、文芸に対する造詣の深さを我々に示した。ところが、現代、こうした人間が激減し、言語を消費する人間ばかりとなった。また、哲学者が激減し、小説家が増加。物語を創る人間ばかりが増え、物語を哲学する人間は激減した。なぜならば、哲学的思考とは創作の上位互換だからだ。哲学的思考と創作において必要とされる頭脳の型はまた異なっているのである。この上位互換を得意とする人間が現代では激減し、創作を得意とする人間ばかりが増えた。世界を生成ばかりしても仕方がなかろう。哲学し、世界に講釈せねば世界は変わらぬのを書き手自身も理会せねばならない。
話を戻す。現代は言語のファストフード時代また、言語の高速道路時代と呼んでもいい時代に突入している。その日本語がいかに大衆にウケるか。いかにいいねを稼げるか。この部分にばかり目が向き、言語の趣旨である「正しく伝える」「正しく書く」ができない人間が急増しているのだ。杞憂すべき事態ではなかろうか。
SNSではそのままの言語でもなんとかやってゆけるだろう。しかし、SNSがなくなったとき、そのままの言語で通じていた世界はたちまち瓦解する。現実世界において要請される言語とは、正確に、きちんと伝わる言語だからだ。そして、また、文章を正確に書くスキルも要請される。現実はSNSほど優しくはない。故に、日々文章を書く訓練が欠かせないのだ。そして、文章を正確に書けない人間ほど人工知能との離島に流れ着くメカニズムがあるのだ。
ここまで書いた。現実が要請する言語とはキャッチーな言語とは別の次元にあるのを理解せねば、後々大変な事態となる。
2025-09-26 11:38
「人を助ける」とは
このブログに日々文章を書きながら、私の文章に救われたと感じてくださった方が果たして存在するのか、と立ち止まってしまった。そもそも前提として、私自身が言語の可能性を信じ切れずにいるのだ。言語がどれほどの力を秘めているのか。それを未だに理解できずにいるのだ。が、言語が持つ力は凄まじいからこそ、人生を変える力を持っているわけで。文章にはこの通り、人生に介在し、人生の文脈を変える力を持つ。我々の生活は言語なくして成立しないと言ってもよい。
ところで、今日、パジャマ姿のまま119番通報し、救急車で病院に搬送された。原因は自殺未遂ではないので、安心してほしい。何より、自殺未遂ならばこの記事を書けないであろう。自殺未遂でないからこそこの記事を書けているのである。とは言うものの、救急隊員が搬送の必要性ありと判断した事態だったので、ただ事ではなかったのだが。
つまり、裂肛である。しかし、下血と判別がつかなかった。そして、病院に搬送後、電解質輸液を点滴してもらい、CTの検査を受けた。結果、検査に異常はなし。裂肛の確率が高いとのことから座薬を処方された。それから、自宅に帰宅した後、回転寿司に行き、そこで寿司を食べ、「造血造血!」と寿司をたくさん食べた。
最近、人様に助けていただく機会が多く、私も人を助けたい、と思い始めた。そして、人を助けるために何をすべきかを考えた時、文章を通して知識を人に届けるべきというのに気づいた。なぜならば、知識がなければ人間、騙されたり犯罪に巻き込まれたりとリスクを回避できないからである。そして、私がそれらを回避するための知恵を人々に授けるべく、言語を通して人々に知恵を授ける役割に回るのが大切であるのに気づかされた。
正直、考えてしまう。金と言語、どちらが人を救うのか、と。金を持たない人間にいくら言語を与えても、そうした人間にとって、言語はただただ非力なだけである。ならば、そうした人間には資産に変わる言語を授けるのが大切なのである。つまり、商売にまつわる言語や福祉制度にまつわる言語であったりと、言語にもこの通り、きちんとジャンルがある。
また、私自身、「言語を遊戯するとは本来、裕福層の余暇なんだろうな」と感じる瞬間と「これは生き延びるために必要なんだ」と感じる瞬間の二通りがある。
言語にはこの通り、二つの顔がある。理統、つまり何を書きたいんだ、と突っ込まれそうであるが、本旨が私自身もはっきりとしていない。
つまり、一時的に人を救うのが資金。恒久的に人を掬うのが言語。こう分類すると腑に落ちるのではなかろうか。
2025-09-28 19:57