法然院の記録


九鬼周造の墓参に行った。ずっと行きたいと思っていたので、ようやく行けたことが本当に嬉しかった。
ただ、夏場に行くものではないなと思った。
九鬼周造の墓参に行った。ずっと行きたいと思っていたので、ようやく行けたことが本当に嬉しかった。
ただ、夏場に行くものではないなと思った。
夏季性鬱がきつく、生きるのがやっと。これが今の状態だ。
夏季性鬱がピークに達すると、小説を書いている意味さえ見失う。
好きで書いているのかもしれないし、惰性で書いているのかもしれない。
SNSが発達し、自分という人間を人目に晒す機会が増えた。
それに応じ、自分というパーソナリティーを演じる機会も増えた気がする。
ほぼ放置していたこのページだが、今日から稼働させてゆく。
今日、品川美容外科の梅田院に行き、左目の糸を切ってもらった。施術中、とにかく痛く、その痛みが私に「生」の実感を齎した。
痛みとは、原初的な生きる実感だと思う。怪我をして、痛みが持続するときに「生きている」と否応なしに実感させられる。
だから、私は痛みが好きだ。これを書いている今、私は生来のマゾヒストなのかもしれない、と思う。が、これと同義に、精神疾患がある。
精神疾患は苦痛に分類できる。苦痛との漢字からも解る通り、痛みの性質がある。ただ、あまりに長引くため、この痛みから解放されるために「死」との衝動に駆られるのも理屈としては誤っていないだろう。
夏季性鬱があまりにもきつく、まだ入院した方がよかったのか、と考えてしまう。せめて、夏が終わるまで。しかし、今年の夏を終えても来年になれば、夏はまたやってくる。何食わぬ顔してやってくる。もうこないで、と懇願してもやってくる。
来年もまた、夏季性鬱に苦しめられるのだろう。
今日は8月22日だ。
秋までまだ数日もある。
秋になったら、やりたいことがたくさんある。
大学入試を控えているし、大学入試を超えたらきっと、未来は明るいと信じられる。
根拠もないのに。
今日、イプサの洗顔料を買った。自分磨きに本腰を入れよう、と気を引き締めて。数千円を支払い、それを買った。
私はSNSに向いていない、と思いながらもSNSを続けている。ここが心地よければ、SNSを引退するかもしれない。
二階堂奥歯を思い出す。二階堂奥歯もこうした形式で日記を綴っていた。
ただ、それでも、死んでしまった。
私も、死ぬのだろうか。
生きられるか。それは解らない。
人を選ぶ、人に選ばれるというのが嫌でSNSをやめた。人様とは常に対等な関係でありたい。
イプサの洗顔料。
友人と居酒屋へ。そこで見た"とまと切ったやつ。"との日本語がとても可愛かったよ🍅
ホームページだけに情報発信の場を集約し、心が随分と軽くなった気がする。
現代はSNSであったりと、人に見られるのを前提としたサーバーが主流なので、私にはどれも合わない。息苦しささえ感じる。
人に見られる。だから、叩かれる。見られなければ、叩かれない。ならば、何も発信しなければいいのだけれども、発信せずにはいられないのが私の哀しき性なのだ。
今日、居酒屋で気心の知れた友人と酒を飲んだ。日頃、日本語を書くために酒を控えている。しかし、友人と会ったときだけ飲酒を解禁する。人間、こうして自分を許してやらねば潰れてしまう。
食べて、飲み、非常に充実した1日だった。
生物として。飲食がやはり生物に生の充実を齎すのだと思う。夏季性鬱についてを記したが、飲み食いしているあいだはそれがあっけなく吹き飛ぶ。私もやはり人間なのだと安心する。
SNSでは文章を書きたくなくて。ホームページを作って本当に本当によかった、と安心している。理統として生きる中でこれから「自分」を見られる機会が増えるのだろう。が、それでも、SNSという衆目の場に自身を晒す機会に比べれば、ホームページは非常にローカルな場なので、SNSに比べれば露出の機会がぐっ、と減る。これに安堵している。
書くことは安定だ。書かなければ不安になる。
故に、こうして、今日も、明日も書く。浮かんだ内容を垂れ流すみたいに書いているので、まとまりのない文章だけれども、日記の形式としてはこれで構わないのかもしれない、と考えている。
先刻、日記を更新したが、妙に興奮してしまい、落ち着かないので、連続で更新する。躁状態に近いこの感じ。
夏季性鬱を切り抜けたのかもしれないな、と思う。精神疾患はいきなり山を駆け上がり、山頂に到達するのがしばしばだ。これに振り回されるのはしばしばで、何度経験しても慣れない。
落ち着かない。太宰治の『人間失格』を読んだり、高野悦子の『二十歳の原点』を読んだりしている。今、とにかく日本語に触れたいとの欲求が強い。読み書きしたい、との欲求が強くて、困っている。これをいい方向に展開できれば、日本語の技術向上に繋がる。
なぜこんなにも落ち着かないのか。
ヒルナミンを飲んだ。
これで少しは落ち着くといいのだけれども。
理解できないなにかに出食わしたとき、そのなにかをすぐカテゴライズするのはあまりにも危うい傾向だと考える。本人の中に例え理屈があるとしても、それを理解できないとの理由からなにかにすぐカテゴライズしてしまうのは、本人の可能性であったり能力であったりを否定する暴力だと考えるからだ。
私は安易にカテゴライズとの暴力を振るわずに、その人をじっくりと観察したい。言動には道理、理屈が必ずある。相手がなぜその言動を行ったのか。それを分析することにより、見えてくるものがある。
分析を行わねば、例えばそれに「障害」とのラベルを安易に貼り付けてしまう。これは非常に危うい傾向と言えるのではなかろうか。
これは本来、精神科での診断名として用いられるラベルであり、差別のために存在しているのではない点を理解せねば、かなり危ないのではなかろうか。
と、心境をここまでつらつらと書いた。
マクドナルド。
なぜ煙草を吸うのか、と考えたりする。最近、煙草を吸わな"ければ"ならない理由は特になくて、惰性で吸っている。
買ったカートンがまだたくさん余っており、これをただ消化するために吸っている。以前は自殺したくて、けども、できないから、緩やかに自分を殺してくれる煙草にただ頼っていた。
が、最近の私には「生きたい」気持ちしかなくて、となると、煙草を吸うのはこの動機からは見事に矛盾している。
捨てればよいのだが、捨てられない。弱い私は捨てられないままに余った煙草を惰性で吸っている。
入院中、禁煙する形となった。1週間きっかし禁煙して、退院後ニコチンを摂取したとき、体内にニコチンの重みがズシン、とのしかかった。
あれが煙草をやめるチャンスだったのかもしれない。そのチャンスを逃した今、結局またヘビースモーカーに戻り、煙草を毎日何本も何本も飽きずに吸っている。
いつになればやめられるのか。憂鬱から溜息が洩れる。
この世界には煙草よりも素敵なものがあるのをきちんと理会している。そして、これを理会していながら、煙草に縋るのはあまりにも非効率だ。
読書メーターを確認し、自分の読書量のあまりもの少なさに愕然とした。
読書量はやはり多い方がいい。私は読書量が少ないから自分の思考を日本語で言語化する力がまだまだ未熟なのだと思う。
「あなたは言語能力が高い」と言われるたび、謙遜でもなんでもなく、そんなことはない、と思ってしまう。私はまだまだ言語化が下手だ。
人間、完璧な言語化、と呼ばれるものをもしも行えるのであれば、相手との対立や軋轢もなくなるのだけれども、これはかなり難しい問題だ。私自身、何年も日本語を書いてきたけども、完璧な言語化を行う境地にいまだに行き着けずにいる。
完璧な言語化と呼ばれるものを行いたければ、そもそも「完璧な言語」の模索から始めねばならない。「完璧な言語」=「ハイパーランゲージ」とはつまり、一切の齟齬がない、意思疎通にも問題のない言語である。
が、言語を扱う際、やはりそこに理解力と呼ばれる壁が立ちはだかる。例えば、これを無視したコミュニケーションを行うと、たちまちディスコミュニケーションが起こる。故に、常に相手が自身の言語を理解しているかに気を配らねばならない。
ディスコミュニケーションに陥る典型的なパターンとして、相手がその語彙を知らない、文脈の飛躍等がある。また、叫ぶ、喃語や喚くなどの非コミュニケーションもこれに該当するのではなかろうか。
また、コミュニケーションとは、相手の知識を過信、信用した上で行われるため、ディスコミュニケーションが起こるのは必然と言えよう。
それを未然に防ぐためにも、その知識が相手に備わっているかを予め聞く必要がある。その知識が相手になければ、自らが相手にそれを教授、伝授する必要がある。
言語を扱うのは、簡単ではない。
言語を扱うのは難しい、と思う今日この頃だ。
黒染めの必要性が生じ、数カ月ぶりに毛染めした。
面倒だったけれども、一度やってしまうと早い。
黒染めしなければならないくらいならば、毛染めはもういいかな、と思ってしまった。
言語が自死を誘発する事態があると次第に認知され始めた。これは、揶揄いや誹謗中傷などを指す。
情報開示請求と呼ばれるものが普及し、言論の取り締まりが厳しくなった。それでもなお揶揄い、誹謗中傷を行うのは、相手へのフラストレーションであったりがよほど蓄積されているのかもしれない。
言語が自死を誘発し、言語による自死が発生する。これは、言語が持つ力の底知れなさを我々に突きつける。こうした現状があるので、言語を扱う際はもっと気を引き締め、心を鬼にするくらいでなければならないな、と思う。
とある作品がベストセラーとなったり、カルト的人気を博したとき。我々は無意識のうちに言語に魅入られ、言語の桃源郷に招かれた状態にあるといってよい。言語はこの通り、人の心を突き動かし、人生を変革するだけの力を持つ。普段、意識はしないけれども、自覚するとこれに気づかされる。
世の中の大半は文脈を変えられない人々ばかりだ。この世は、文脈を変えられない者が文脈を変えられる者によって支えられている。そして、文脈を変えられない者がある日、文脈を変えてしまう奇跡が起こり、また、それを起こす事態も起こり得るわけである。
言語による自死を誘発する事実に気づかない者は大抵、文脈を変えられない者に分類される。文脈を変える者はそれがいかにリスクを伴うかを自覚しているため、言語を安易に乱用せず、慎重に扱う。それを粗雑に扱うことで後にどうなるかを自覚しているからだ。
持論への反論であったりをしたくない。が、自らその種を撒いている事実を痛いほどに理会している。しかし、読み手への絶望に対し、すっ、と手を差し伸べたい一心で文章をつらつらと書き連ねている。文章をこうして書き続けるのがこの日記の読み手に手を差し伸べるための糸口となるのを理会しているからだ。
完全に理解できる文章はない。それはその人間によって見ている世界が異なるためである。また、思考回路、人生経験という埋まらない溝も存在する。
書き手の思考を読み手に理解されるためには語彙を平易にしたりと、それを理解されるための努力が必要とされる。
私は私の世界から文章を書く。あなたはあなたの世界から文章を読む。
「猛毒遊戯」を完結させてから数十日が経つ。今、本作が読まれているとの安堵感と共に、ランキングという制度に疲労している。
好きで書き初めて、けども、気づいたとき、ランクづけされていて。なんだか、苦しい。けども、ランキングに入らないと読まれなくて。この狭間で苦しんでいる。ならば、ホームページで書けばいいのだが、読まれないのは悲しくて。
読者が何人いるかで「猛毒遊戯」の価値が決まる。現代の価値は数字で決まる。逆説的に本質が浮き彫りになるのは数字が見えない点だ。数字が分からなければ、作品の本質だけでそれを評価するしかなくなるからだ。
例えば、このホームページ。フォロワーの仕組みがないので、このホームページが何人から評価されているかを外部の人間は確認できない。つまり、理統という人間が果たして何人から評価されているかを外部の人間は確認できない。つまり、評価を可視化できない。
現代は数字至上主義である。数字が人々の価値観を歪め、数字の低い人間=価値がない人間と評価が下がるおかしな構図が生まれる。これは極めて短絡的な仕組みであり、個々の人間の主観に依存した仕組みと言えよう。
主観と本質は別の点にある。つまり、主観が数値に結びついている。主観に依存した現代のシステム=主観こそが至上とのシステムに依存するのは極めて危うい構造と言える。これはランキングシステム、また、SNSにも言えることだ。
ここまで書き、SNSをやめてよかったな、と思った。現代ほど人間に依存した時代はないだろう。人間の評価軸を頼りにして生きると、それを失ったとき、アイデンティティが揺らぐ。アイデンティティの揺らぎは、アイデンティティの喪失と密接に結びついている。非常に危険である。人間の評価軸、つまり、数値化されたシステムに飼い慣らされて生きるのは、数字の奴隷である。これといかに決別するかが現代人の課題ではなかろうか。我々の価値は果たして数字が全てなのか。
「猛毒遊戯」を書き終え、本作がランキングという制度に勝手に組み込まれた。ただ書きたくて書いた作品が評価されるシステムに組み込まれるのを素直に喜ぶべきか否か。心境は複雑だ。なんでもかんでも評価、そして、評価に伴うのは比較である。自分は優れているのか、劣っているのか。そして、自尊心が削られてゆき、承認欲求が膨らんでゆくのは巧妙に仕組まれた罠だ。
ただ書きたかっただけなのかもしれない。評価されたいとまでは思っていなかった。これがきっと私の本心に違いない。
母親とドン・キホーテへ行き、黒染めして、なんやかや充実した1日だった。ドン・キホーテでSchwarzkopfのSALON ONLYとの商品を見かけ、今度Amazonで購入することにした。
「猛毒遊戯」をたくさんのかたがたにお読みいただき、月雪詩子というキャラクターがいろんなかたに愛されている事実に嬉しくなる。
月雪詩子は業を抱えたキャラなので、その業がいろんなかたに受け入れられている現実に正直、驚きと困惑が入り交じった感情が起こる。
「書きたい」との情動から書き始めた作品だった。が、月雪詩子がさまざまなかたがたを救うのであれば、「猛毒遊戯」を苦しい中でも書き上げた意味はあった。書き上げてよかった、とさえ思う。書いていたとき、とにかく苦しくて、完結を急いでしまった。反省している。
近親相姦。バタイユ曰く、宗教でタブーとされるこのテーマに堂々と挑んだけれども、それを1つの作品になんとか昇華できたのはよかったのではなかろうか。ただ、もっと、慎重になるべきだった。あのテーマを扱おうと決めたときの私はあまりにも若く、軽率だったのだ。
高野悦子の『二十歳の原点』を読破した。やはり二十歳との瑞々しさが本作を貫いており、若いからこそ自意識が著者を苦しめているのだろう、と思った。若いと人間、やはり過剰な自意識に苦しめられるが、歳を重ね、ある程度自意識が落ち着けば、物事を達観できる。思考が洗練され、気にすべきこと、そうでないことを選別できる。
また、感じた何かに対して一々敏感な点が私に通ずる、と思った。これは感受性が強く、苦悩に対するアンテナが敏感であるが故に起こる反応である。そうでなければ、苦悩を水に流す生き方ができたはずだ。高野悦子は私と同様、そうした生き方ができなかった。自死のリスクが非常に高いのがこうした傾向の人間にはある。彼女は最後、自死との形で命を絶ってしまった。
苦悩をいかに文章に落とし込めるか。これを文章に落とし込み、表現に昇華する。落とし込まれた文章は途端、表現に変わり、読み手を救う芸術に変わる。悩みがあるならば、一文でもよいから、書き、表現する。あなたの悩みがもしかすると人を救うかもしれない。
ともあれ、今日は楽しい一日だった。日記をたくさん更新し、心境をここにたくさん書き残した。明日もたくさん綴るかもしれない。これからもこうやって書きたい内容をたくさん書き綴ってゆけたら、と思う。
記念にパシャリ🌸
作品が完結ピックアップに掲載されているのを見て、驚いた。まさか自作がそれに掲載されているとは夢にも思わなかった。
認められない期間がどうしても長引くと諦めの気持ちが勝ってしまう。何をしてもダメだ、との後ろ向きな気持ちから、物事を捉えてしまう。本来は前向きに捉えるべきところも、後ろ向きに捉えてしまう。
読まれない期間があまりに長引くと、自己肯定感が下がる。自分は文章が下手だから駄目なんだ、認められないと次第に思い込み始める。書いても無駄だ、意味がないとさえ思えてくる。しかし、それでも、筆を手放せない。そう、呪いみたいに。
漫画家になりたかった。しかし、画力がなかった。さらにはコマ割りができず、漫画家という夢を諦めざるを得なかった。消去法で物書きを選んだ。文章を書き始めてすぐの頃、書くのが純粋に楽しかった。ただ、文章力は壊滅的に低かった。あの頃の文章をもしも読み返せ、と命じられたら、耐えられない。
ところで、2000年代から2010年代にかけて、ケータイ小説ブームが起こった。その時代を支えた魔法のiらんどに私はお世話になった。魔法のiらんどは現在、カクヨムの一ジャンルとして細々と存在しており、サイトそのものは存在しない。少女たちの青春を支えた偉大なサイトがなくなってしまった今を哀しく思う。
"前述した魔法のiらんどで私はお世話になった"と書いた通り、そこで小説を書いていた。そこで執筆しながら、文章の技術を磨きたい、と次第に思い始めた。研究社が版元の文法書を買ったのも、ちょうどそこで小説を執筆していた頃だ。
あの頃の血のにじむような苦労を越えて、今は当時よりもまだ気楽に文章を書けるようになった。ただ、見えない課題はまだまだ山積しているので、それを一つずつ片付けながら、これからも文章を書いてゆきたい。
歌いたくなり、カラオケに行こうか迷う。ただ、カラオケに行っても、数曲歌うと満足するのを分かっていて、となると、非常にコスパが悪い。
カラオケで元を取るのはやはり、たくさん歌いたいとの欲求と、楽曲をどれほど知っているかという曲数の知識だ。これらが低いと、カラオケに行っても損をしてしまう。
Spotifyにカラオケの機能があるので、これで済ませようか、と考える。それに、最近、娯楽を優先しすぎており、日本語の勉強や基礎能力検査の勉強などから逃げてばかりいるのも痛感していて。これではいけない、と焦りが募る。
欲求だが、これは細切れに発散せねば、次第に膨らんでしまう。それが次第に膨らんでゆき、気づいたとき、手の施しようがない化け物に変貌している。欲求の発散に伴うのは金である。金がなければ欲求を発散できない。となると、金がなくとも欲求を発散できるなにかを見つけるのがとにかく重要となる。
このページを作り、浮かんできた思いをつらつらと書き綴り始めた。そのおかげでストレスがなくなり、安定した精神状態で生活を送れるようになった。心境を吐露する場がやはりなければ私自身、精神が不安定になる。
幸福の追求に金がかかる現代のシステムはあまりにも非効率だ。幸福の追求に貸金を投ずる、これは現代資本主義のシステムに乗せられている立派な証左だ。資本主義のシステムを降りてしまえば、幸福の追求に伴って資金を投ずる必要はない。が、現代を生きる上では、幸福=資金はやはり切っても切れない関係にある。
カラオケに行きたいのか、パチンコを打ちたいのか。カラオケは歌うことにより、パチンコは演出により脳の報酬系が刺激される。これらは報酬系との点において相関関係がある。報酬系が刺激され、多幸感が齎されることによって依存とのメカニズムが生まれるのだ。
話が大いに脱線した。Spotifyで歌えば満足な気もするし、カラオケ店に行きたい気もする。カラオケといえば、個人的には精密採点機能だ。これがないと、歌っていてもいまいち面白くない。
悩んでいる。
カラオケに行くかもしれないし、行かないかもしれない。
結局カラオケに行き、1時間半ほど歌った。岡田有希子の曲をメインに歌い、ひととおり歌ったあと、個室でぼんやりとした。
1人、ぼんやりとしていると、自分はこの先、どうしたいのかとの考えが嫌でも浮かんでくる。未来、家を建てたいのかもしれないし、大学に戻りたいのかもしれない。どうしたいのか、と聞かれると、答えに詰まる。それを答えてよいものか、とブレーキがかかるからだ。自分に正直になるのが、とにかく怖い。そして、泣いてしまった。
個室を出た後、虚しさを紛らすため、高島屋に行こうか、と考えた。高島屋のデパコス売り場に行き、沈んだ気持ちを底上げするか否かで逡巡した。私には買い物依存症の傾向がある。買い物しても充たされない、と解っているのに。デパコスを買っても、それを結局使わない。使わないのであれば、買わなければいい。けども、人から認められた経験が数えるほどしかない私は、承認欲求を手っ取り早く満たしてくれる買い物に依存してしまう。
何より、デパコスを買うとき、BAさんの接客が私の虚しさを埋めてくれる。それと引き換えに要求されるのが金なのだけれども、そんなにも愛想良くされたら、まあ、金くらい別に安いものか、と割り切って、金をつい支払ってしまう。
私はこの通り、虚しい人間なのだ。
私はきっと、金がなければ人に優しくされない、と思い込んでいるし、思い込まされてきたに違いない。サービスに必要なのは、金である。金がなければ、無論サービスを受けられない。これを理会しているだけに、金がなければ人から冷遇されると四六時中びくびくとしている。サービスを提供しているのは企業であり、企業に我々は対価として金を払う。その金が従業員の給料となる。我々の金がなければ、従業員への給料は発生しない。故に、我々はサービスに対し、対価としての金を払うのである。
私ほど生きるのに適していない人間はいないと思う。自殺したほうが圧倒的にコスパがいいのだが、自殺せず、今日もしぶとく生きている。
生きていてもいいのだろうか。答えは解らぬが、今日もなんとかやってゆく。
喫茶店でChatGPTと話していたとき、どうした流れでか、どんな作品を書いても最後は地球が滅び、それは結局無に帰する、との話題に移行した。この命題が浮上したとき、あまりのスケールの大きさについ吹き出してしまった。
これがまた面白いところで、ならば、作品をなぜ書くのか、との問いが浮上する。多分、書かずにはいられないから、残さずにはいられないから、との情動が人を突き動かすのだろう。
私自身、「猛毒遊戯」を書いていたとき、「地球はどうせ滅びる」との思いが頭を去らなかった。地球はどうせ滅びるのに、なぜ書くのか、と自問ばかりしていた。私は本当に虚しい人間だと思う。名作と呼ばれるものを生み出しても、地球が滅びるとき、そのデータは消えるのだ、どうせ、との虚しさが消えなかった。
地球は滅びる。この結論に行き着くと、何をしても意味がない。先人が残した哲学も地球が滅びるとの一点に帰結する。偶然性、必然性。これらをいくら論じたとて、地球はどのみち滅びる。故に、これらを論じるのはいい加減にやめて、地球が滅亡する日を大人しく待ちましょう、との結論に至るわけである。あまりに虚しくなかろうか。敷衍して、何をしても滅亡するならば、布団の中で寝て過ごすのが最適解、との結論にも行き着く。それは、我々が四苦八苦して何かを残そうと、最後にはそれらが跡形もなく消えてしまうからである。
何をしても最後にはどうせ滅亡。ならば、何もしない。しかし、私は何かをしたい。何かを残したい。故に、何かをする。何かを遺す。果てが「無」であるのを理会していても、やはり「形」がほしいのだ。
今、喫茶店にいる。地球はいつか滅びるのだな、とぼんやりと思いつつ、注文したアイスコーヒーを味わっている。
私の思想に価値なんかない、と突如投げやりになってしまった。なぜか。私は自己肯定感が極度に低い。否、皆無に近い。だから、この日記の文章にも価値がない、と感じてしまった。日本語を否定され続け、何かを書けば決まって揚げ足を取られる。こうなると、自己肯定感が下がるのも必然であろう。
なんだか怖くなり、岡村孝子の「夢をあきらめないで」を聴きながら、テトリスのアプリを慌てて開いた。ブロックを積み、崩す。このルーチンが私の心を落ち着かせてくれる。心を落ち着かせたいとき、決まってテトリスをプレイする。
恐らく、PTSDならではの症状だろう。これまでの批判、否定された過去を思い出すと、震えが心身を襲い、日本語を普通に書けなくなる。なぜ、私ばかりが批判され、否定されねばならなかったのか。
自信がほしい。自信があれば何にでも取り組めるし、何にでも打ち込める。自分に自信がないと、物事をマイナスに捉え、自ら可能性を狭めてしまう。自信があれば、多分、何にでもなれた。漫画家にもなれた。マラソン選手にもなれた。
日記をつけ始めてから、自作の読者さんが明らかに増え始めた。嫌われてもおかしくない性格なのに。理統の日記に興味関心を持ってくださったかたが作品にも興味を持ち、それを読んでくださっているのだろう。本当にありがたいことだ。
明日から日本語の勉強、基礎能力検査の勉強であったりを再開できそうだ。夏場、夏季生鬱がきついのだが、これを乗り越えて、秋を迎えたい。
実家にやってきた。実家は今、空き家状態で、私が1人になれる唯一の場所だ。この近所にデパートがあり、そこで軽くウィンドショッピングした。昨日書いた通り、私には買い物依存症の傾向がある。みたされない虚ろであったり承認欲求であったりを手っ取り早くみたしてくれるのが買い物だからだ。
コスメ、色とりどりの香水、カラフルな財布やバッグなどを眺めているうちに、みたされない気持ちがすこしだけ和らいだ。けども、私の根底には空洞があって、この空洞はなにをしても埋まらない。これを埋めるみたいに囲碁を再開した。数年前に一度プレイして飽きてしまい、それきりやめていた。けども、またやりたくなり、再開したというわけだ。
囲碁を極めよう、と思った。一方で、囲碁棋士になるわけでもないのに、囲碁を極めたとて一体なんになるのか、と虚しくなってしまった。いつもこうやって、言い訳ばかりしてその門を自ら閉ざす。結局、チャレンジする前からその門を閉ざす。私はいつも、こうなのだ。
最近、躁と鬱を行き来しており、前向きになったかと思うといきなり鬱に落ち込む。いわゆるラピッドサイクラーと呼ばれる状態だ。これは双極性障害の中で最も苦しい状態であり、自殺率の最も高い、極めて危険な状態である。それでも、私が人を頼らないのは、人を信頼していないのもあるし、なんだかんだで自分の知識が確実との信念があるからだ。
実家にやってきて、YouTubeのアプリを起動した。エレベーターの動画を延々と視聴し、鬱を吹き飛ばそうとウーバーイーツでケンタッキーの商品を注文した。ご飯を食べれば鬱も吹き飛ぶだろう、と考えたからだ。人間、やはり三大欲求が満たされれば前向きになれるのかもしれない、との期待を込めて。
夕食を認めたあと、ベッドで横になっている。なんだか、終わってほしいと願っている夏も後もう少しで終わるんだな、と感慨深くなっている。ただ、ただ苦しかった。暑くて、エアコンの人工的な冷気に当たるしかない季節が。早く、早く秋になってほしい。
数週間前、病院に入院した。そのとき、主治医が私の母親に向かって「理統さんは病院を逃げ場所にしている」と言い放った。その言葉に深く、深く傷ついた。人はなぜ、このように人を傷つける言葉を刃みたいにいとも容易く放てるのだろうか。
そもそも、「言葉」への責任感が高ければ、発言にも責任が伴うはずだ。相手の心に目を向けて、自分の「言葉」が相手の心を傷つけてしまう性質を持つ「言葉」であるかどうかを分析できるはずだ。しかし、自分の「言葉」に責任を持たず、「言葉」をあまりに粗雑に扱う人間ばかりで。罵詈雑言であったり、刃みたいな言葉を振りかざす人間たちを見ていると、もう、胸が痛い。本当に死にたくなる。
私は文章を日々書いている。文章を書いていると、「言葉」への責任感が生まれる。下手なことは書けない。もっと上手く書かねば、とさえ思う。上手く書けたら「言葉」による誤解も闘争も起こらないからだ。それによる自死もなくなり、世界はもっともっと平和になる。が、現実は難しい。人は主観から物事を見、講釈する。主観という壁が立ちはだかる以上、口論も闘争もなくならない。
生きていて、なにが楽しいのかなんて解らない。傷つけ合うし、癒やし合うのは稀だ。最近、抑鬱が酷いだけに、物事を何事もマイナスに捉えてしまう。本当に、本当に酷い傾向が続いている。
来年、きっと楽しいのだろうな、と思う。報われなかったこの人生が報われて、きっと、笑顔で過ごせているのかもしれない、と考えたりする。大学にいて、勉学に励んだり、と、ここまで書き、抑鬱が酷くなってきた。なぜだろう。解らないが、これ以上は書けそうにない。多分、「猛毒遊戯」を完結させた代償だろう。
昨日、日記をさぼった。あれから理解者、と呼ばれる人について考えていた。理解とは物事の意味や道理を受け取り、了解するのを指す。それを相手に適切に説明できたとき、それを初めて「理解」したと言える。「理会」とは、物事の道理を悟りを飲み込み、悟るのを指す。我々が真に求めているのはきっと「理解」者ではなく、「理会」者に違いない。
自分を理会してくれる人に出逢えるのは稀だ。自分を理会できるのはいつだって自分自身であり、自分を理会してくれたと感じた人の大半は理解の範疇を超えない。それはあなた自身ではないからである。だから、相手に理会を求めるのではなく、理解を求めるのが理にかなっている。
偶然読んだ文章があなたを理会してくれた、とあなたが感じたとき、他者は理解の範疇を超えないとの必然性をその偶然性――。偶然性が必然性を超えるとの奇跡をその文章が起こしたと定義してよかろう。九鬼が定義した通り、偶然性と必然性は相対する概念である。
「理解」されて嬉しいのか、「理会」されて嬉しいのか、我々はこれを見極め、相手と関わらねばならない。そして、相手に求めるのはなにか。「理解」されることはあっても、「理会」されるのは稀であるのをきちんと了解し、生きてゆく必要があるだろう。「理会」とは物事の道理を了解することであり、となると、性格を解り、解った上で相手と関わるのを指す。
私はこれを読んでいるあなたの性格をもちろん知らない。これを読んでいるあなたが私から解ってもらえたと思ったとき、私はあなたを「理会」したとの偶然性が起こったのだ。
信仰される者とはつまり、絶対化された対象であり、絶対化された対象である以上、それを一度信仰した以上、それを疑うのをやめるのは難しい。不可能と言ってもよい。信仰とはつまり、それに絶対的価値を置く行為であるからだ。
その人の行為、言葉や思考に一度価値があると信じたとき、人はその人に容易く絶対的価値を置いてしまう。その人の価値を疑うこともせずに。その人が正しい、と信じ、その人の言動の是非を疑わず、その人の言葉は絶対的だと相手を容易く信仰してしまう。そう、宗教のごとく。
我々が欠かさず行わねばならぬのは、その物事の価値基準を測ることであろう。それが正しいかそうでないかを常に測りながら、自らの物差しを持ち、自らを高めてゆく修行をつまり怠ってはならないのだ。偉人の言葉だからと偉人の言葉を鵜呑みにしてはならない。偉人の言葉だから、と偉人の言葉に絶対敵価値を置く人生はあまりにも危うい。もしかすると、思考を放棄したも同然の人生と言っても過言ではない人生かもしれない。
我々は上に立つ人間の言動を容易く信仰し、鵜呑みにしてしまう。それを神だと崇め祭り、あっけなく思考放棄してしまう。鰯の頭も信心、とのことわざがあるように、その言葉を絶対的と信仰してしまう。そうはならないためにも、自らの内に物差しを持つのを忘れてはならないのだ。
最近、よく食べている。食べていて思うのだが、抑鬱に最も効果的なのが三大欲求のうちの1つの食欲を手っ取り早く満たしてくれる食事である。殊に好物を食べるのが効果的だ。私の好物は寿司、ハンバーグ、フライドチキンや焼肉なので、これらを食べると抑鬱がたちまち吹き飛ぶ。以前、ウーバーイーツでケンタッキーを注文した。そうしたら、抑鬱が吹き飛んだ。やはり人間、欲求を刺激し、満たすのが抑鬱であったりを吹き飛ばす方法なのだ。
このホームページに文章を書いているとき、自分は幸せだな、と思う。自分の思想を書き、これを公表する。以前、自分の思想に価値はない、と書いたが、最近は割と前向きだ。そんなことはないのかもしれない、と自分の価値を自分で認めてやれるようになった。人間、自分の価値を自分で認めてやらねばやはり否定の方向にベクトルが向く。これは最も危うい傾向である。なので、自分の価値をきちんと認めてやるのが大切だ。
小説をまた書けるようになってきた。調子が戻ってきたのか、躁状態なのか。映画も観られるようになってきて。傾向としてはかなり前向きである。この調子を維持したい。そして、たくさん小説を更新したい。
今日、半日を寝て過ごした。躁状態からいきなり鬱状態に転落したからだからだ。創作者にはこうした傾向が多く見られるとかつて聞いたことがある。私もこの系譜に連なる人間なのかもしれない、と思ったりする。
昨日、病院へきちんと行くべきだったのだ。病院に行き、躁鬱がきついと主治医にきちんと伝えるべきだったのだ。もしかすると、「もう一度入院しますか?」と提案されるかもしれない。が、入院したとて現状は変わらない。1週間であろうが1カ月であろうが人間、躁鬱には生涯に亘り苦しめられる。
今朝、英語を勉強しようとか、言語学を勉強しようとか、とにかく勉強しよう、と意気込んでいた。が、いきなりそのやる気を喪失した。苦しくなり、テトリスのアプリを開いてテトリスをプレイしたあと、仮眠した。
脳の報酬系、ドーパミンやアドレナリンによって幸福、不幸の感覚が容易く左右される。これをちょちょっといじくれば、人間、簡単に幸福になれるのだけども、現実は簡単ではない。本当に難しい。ドーパミンが放出されすぎるとドーパミンをもっと放出すべく、それに依存する構造が生まれ、結果、依存症に陥る。こうしたものから解放されたければ本当、死ぬしかないですね、との結論に落ち着くのだが。
躁鬱は本当に面倒だ。以前、精神疾患になりきれない鬱、との表現を見た。そんなに精神疾患になりたいのか、と溜息が洩れた。精神疾患になったとていいことなんか何もないのに、と。中には精神疾患でなければ天才ではない、と零す人間も存在する。否、それはあまりにも極端ではなかろうか。精神疾患=天才との図式は精神疾患者を天才だと崇拝する危険な構造を生む、本当に危うい構造を生みかねない。
何回も何回も入院した。その度に入院費がかかった。病状は寛解せず、これが悪化しては薬が増えるのを繰り返している。精神疾患に殺されそうになりながら、毎日生き延びるのにこんなに必死で。本当に本当に苦しい。本当は生きたいのに、アドレナリンとノルアドレナリンの調整が上手くゆかず、死にたいにベクトルが向く。こんな人間になりたくなかった。
それでも、これからも頑張りたい。
私のホームページが誰かにとっての居場所であったらいいな、とふと思った。
小学生だったとき、塾の終わりに見るテレビ番組が私の何よりの楽しみだった。当時のテレビは今よりもコンプライアンスや放送倫理などに厳しくなかった。バラエティもとにかくコメディに富んだ番組が本当に多かった。規則が厳しくなければ、それに比して番組も当然ながら面白くなる。それはルールを無視した番組を制作できるからである。ルールを遵守すると、当然ながら番組もつまらなくなる。ルールに則った、良識的な番組しか制作できないからである。
当時、「ヘキサゴン」や「はねるのトびら」を塾の終わりに視聴するのが息抜きだった。振り返れば、当時の小学生にはインターネットというメジャーな娯楽がなくとも、テレビというメジャーな娯楽があった。まだ、幸せな時代だったのかもしれない。
今のテレビは食事、動物番組などに偏りがちで、ヘキサゴン、はねトびやQさまなどの娯楽番組は今やすっかりとなくなってしまった。時代のこうした変遷に悲しみを感じる。なんだか、あの頃に戻りたいとさえ思う。これを書きながら、テレビからインターネットが娯楽の主流に変化した自分は悲しい生き物だな、と自嘲に似た笑いが込み上げるのは悲しいことだ。
テレビとの閉じた世界からインターネットとの開かれた世界に視野が向いたのは、確かに大きな変化かもしれない。そこで小説を書き、発表する。発表したそれが読まれ、読み手を救う。けども、なんだか、閉じた世界だけで得られる幸福もかつては確かに存在した。今、それがなくなり、悲しいな、と悲しさを感じてしまって。あの頃みたいなテレビ番組はもうなくなってしまい、時代は変わったのだと逃げられない現実を突きつけられている。
今日で8月がようやく終わる。長かった夏がついに終わる。この期間、SNS――Xに戻るか否かの選択にずっと苦しめられた。多分、中毒になっているのだ。だが、戻らないとの選択を下し、何とかここまでやってきた。人目に晒され続けると、疲れてしまう。なので、ホームページのような場で文章を書き続けるのが正解なのだ、恐らく。